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 馬車のなかには、男が1人。この客を御者は大通りから少し外れた暗がりの道で拾ったが、彼は危うくこの男を轢き倒してしまうところだった。ひどい吹雪のなかを走っていた馬車が止まると男は「イリヤ・ピョートルヴィチ・ヴィシネフスキーの館まで送ってくれ」と言い、御者が返事をする前に馬車のなかに乗り込んだきり、話しかけてもウンともスンとも言わない。身なりからして身分の高そうな男だったが、顔をすっぽりと白い仮面で覆っているのが御者には不気味だった。
「訳はお聞きしませんが、こんなひどい晩ですからね。お代は弾んでもらいますぜ」
 こうして、仮面の男を乗せた2頭牽きの辻馬車がイリヤ・ピョートルヴィチの住む館に向かって闇のなかを切るように走っていた。とにかくその晩はひどい寒さだった。御者が鞭を打つたびに2頭の馬はせっせと白い息を吐く。その湿った吐息はすぐさまに凍りつき、馬の鼻の周りに霜を形作った。猛烈な吹雪は彼の視界を遮り、御者は危うくヴィシネフスキーの館までいく道を誤りそうになった。ランプの火だけを頼りに仕事をするには心細すぎる夜だった。
 馬車が館へと着く頃には、吹雪の勢いは一層ひどくなっていた。仮面の男は御者に金貨を1枚渡し(それは多すぎる報酬だった。御者が信じられないという風に目をまるめたほどだ)、馬車が闇の中に消えて見えなくなるのを待ってから、館の扉を強く叩いて誰かが出てくるのを待った。
 館内に扉を叩かれる音が響き渡る。イリヤ・ピョートルヴィチが祖父から譲り受けたその館は、むしろ城という呼び名に相応しい。ピョートル1世の治世下の時代に建てられた豪奢な建物は、ヴィシネフスキー家の名声と権力を象徴したものだった。館の石造りの壁は、仮面の男が扉を叩く音を何度も反響させ、玄関から少し遠くにあった下男の部屋まで届く。
 扉の重い閂を外した下男は、少しだけ扉を開けて外を覗いた。そこで黒い外套を羽織った肩に降り積もった雪と、白い仮面だけが闇の中に浮かんでいるのを見た彼はとっさに黄泉の国から死んだ父親が蘇ってきたものだと錯覚してしまい、腰を抜かすほど驚いた。そして、火が灯された銀の燭台を絨毯の上に落としてしまったから大騒ぎ。アラベスク文様が細やかに刺繍された赤色の絨毯にその火はたちまち燃え移り、すんでのところで下男が踏み消したから良かったものの、あやうく小火を起こすところだった。
「なにごとかね……ピョートル・ニコラーエヴィチ」
 下男がほっと胸を撫で下ろした瞬間、その後ろから声をかけたのはイリヤ・ピョートルヴィチだった。下男がまるで気が違った百姓が一人で農民一揆を起こしたような声をあげたものだから、寝巻きのままで飛び起きてきたのだ。「だ、旦那さま、申し訳ございません」と下男は主人に詫び、半開きのままになった扉の向こうを震えながら指差した。イリヤ・ピョートルヴィチが下男の指し示す方向を見やると、そこには白い仮面の男が冷然と突っ立ったままである。
「おやおや、どなた様かな。あいにく今晩は仮面舞踏会の予定はございませんが……」
 異様な男の姿にイリヤ・ピョートルヴィチは一瞬驚いたが、すぐに冷静さを取り戻して言った――しかし、腰の後ろに回された燭台を持っていない方の右手では、先祖伝来の短剣がギュッと強く握られている。このところ、市民の中には革命だのを目論む不埒な輩がいるとかねてから耳にしていたイリヤ・ピョートルヴィチは、ひどい吹雪の晩に現れた素性の分からぬ男をテロリストの一味かと勘ぐった。不吉な色をした仮面の奥にある男の目に蝋燭の炎が映るのが見える。その目は、獲物へと狙いを定める狩人のようにイリヤ・ピョートルヴィチの顔を見据えているようだった。押し黙ったままの男にイリヤ・ピョートルヴィチは言った。
「不躾なお方だ。困りますな、何も言ってもらえないのであればこちらも応対のしようがありません。もしかして、何かお困りの方がおありですか?訳ありの急病人でも出ましたかね?」
 イリヤ・ピョートルヴィチは男に慇懃な言葉をかけた。それは相手に余裕を見せることで隙を覗かせない騎士の態度だった。そして彼の言葉に促されたのか、仮面の男は漸く顔へと手を伸ばし仮面を脱ぐ。すると現れた見覚えのある顔に今度はイリヤ・ピョートルヴィチが心底驚かされてしまい、言葉を失ったまま冷静さを保てないと言う様子になった。
「旦那さま、この方はどちら様でしょうか……」
 主人がそのように動揺しているのを下男は初めて見、思わず声をかけた。下男は仮面の男の顔に見覚えが無かったが、仮面の下にある男の顔が思ったほど恐ろしいものでなかったので(それまで下男は仮面の下に焼け爛れた肌や傷だらけの怪物染みた顔を想像していたのだった)、今では落ち着き「もし主人の身に何かが起ころうとするならば身を挺して守ろう」と強気な気分でいたのである。
「馬鹿者!」
 しかし、下男の言葉にイリヤ・ピョートルヴィチは普段は決して用いない品の悪い言葉で反応してしまう。
「このお方はな……ロシア皇帝、ニコライ閣下だぞ……!」
 これに下男はまた奇声を放って応えた――学がなく新聞を読めぬ出来ない下男は、自分の住む国を治める皇帝の顔写真も見たことがなかったのである。そして下男は、屋敷の細々とした雑用しかできない男がそのような位の人間に合間見える権利が与えられていないことに気が付き、動転したまま自分の部屋へと走って逃げてしまった。
 そして、広間には皇帝のイリヤ・ピョートルヴィチだけが残された。
「驚かせてすまなかったな。我が友、イリヤ・ピョートルヴィチ」
 皇帝が声を発したところで、自らが仕えている人物がまだ開け放たれた扉の前にたって、外から入ってくる吹雪に半ば身をうたれていることにイリヤ・ピョートルヴィチは気がついて、皇帝を屋敷のなかへと招き入れ、扉を閉めて再び閂をかけた。あまりの寒さのせいか、皇帝の顔は青白くなったまま生気がない。しかし、その表情には寒さを忘れさせるほどの深刻なものが隠されているようだ、とイリヤ・ピョートルヴィチは思った。皇帝は自らの肩に積もった雪を払うのも忘れているのだ。それをイリヤ・ピョートルヴィチは慣れない手つきで落としてやった。
「我が友、イリヤ・ピョートルヴィチ。私を助けて欲しいのだ……」
 応接室へと通された皇帝はまずそう言った。言葉の調子は重く、まるでモーツァルトの歌劇に登場する殺されて石像になって蘇る騎士団長がのような様子に、イリヤ・ピョートルヴィチは何事が起きたのだろうと事態をうまく飲み込めない。暖を用意させようと人を呼ぼうとするのさえ止めたのには、特別重大な理由があったのだろう。
「どうしたのです……閣下」
 イリヤ・ピョートルヴィチは皇帝の顔をじっと見つめながら訊ねた。
「あの男を……グリゴリー・エフィモヴィチから私を救ってくれ……」
 皇帝は答えた。
「このままではこの国は、あの狂った僧侶に食い尽くされてしまう……」
 皇帝の口から白い息が漏れた。その表情はもはや以前に見知っていた威厳のある皇帝の顔つきではなく、危篤の病人が死ぬ前に見せる顔のように見える。
「まず話をお聞かせください」
 イリヤ・ピョートルヴィチは依然として寝巻き姿のままだったが、もはや部屋の寒さを忘れてしまっていた。何かが始まろうとしているのだ。不吉な予感が今は彼の肌の感覚を麻痺させていた。