ノイマンの最期

 「20世紀最大の頭脳」「悪魔の頭脳を持つ男」と呼ばれた科学者、ジョン・フォン・ノイマンはある日、アメリカ政府高官ご用達の検査医師であるフレックス・ハートから直接電話を受けた。「あなたの身体のことで重大な事実を知らせなくてはならない。家族とともに病院にいらっしゃってほしい」。電話口でハート医師はそう言った。ノイマンはすぐに妻と運転手を呼び、病院へと向かう準備をさせた。ニューヨーク郊外にある彼の豪邸から市街地の病院へは車で30分ほどかかる。ロールスロイス・ファントムIVの贅沢な水牛革張りシートに体をあずけて病院へ向かう途中、彼は頭のなかで適当な計算をして時間をつぶすことにした。ハート医師が言っていた「重大な事実」については一瞬たりとも意識の上にのぼらなかった。ノイマンは自分が天才であることは生まれたときから知っていたし、それは神(というものが存在するのであれば)に選ばれた人間である、という証でもあるはずだ、と認識していたので、ハート医師が予告した「重大な事実」が生命に関わるような事実であるはずがない、ということを確信していたからだ。そしてノイマンは、この時間つぶしの計算遊びの最中、この世界が11次元に渡って存在することに気がついた。「またひとつ、人類を格段に進歩させる発見をしてしまった」と彼は思った。しかし、彼にはその理論を証明するだけの時間が残されていなかった。太平洋上での核実験観察や、ロスアラモス国立研究所での核兵器開発中に彼が浴びた放射線の量は、彼の身体に悪性新生物を植えつけるのには充分なものだった。11次元宇宙の存在に気がついた彼は、ハート医師が待つ病室にて、すい臓がんを告知される。当時、ノイマンは53歳。科学者としてはもっとも脂が乗り切った、と言っても過言ではない年齢だった。
 告知後のノイマンの動揺の激しさは、ある意味、彼の晩節を汚すものだった、とも言われている。ノイマンといえば、20世紀科学のダ・ヴィンチとも称されるほどの、誰もが認める天才であったが、その性格は最悪であり、とくに女癖の悪さは有名だった。彼がサンフランシスコにもっていた豪勢な別荘では、定期的に乱交パーティーが開催され、ハリウッド女優やプレイガールたちがノイマンを喜ばせるたびに集まっていた。「数学的に言って、俺に抱けない女はいない」。ノイマンはそう豪語し、望みとあらば、ペンギンブックスの余白にその証明を書くことができた。しかし、告知後のノイマンは妻の膝で毎晩泣くようにして過ごすほど気弱な男になっていた。ノイマンの友人たちや、彼と一緒に仕事をしていた科学者たち、アメリカ政府高官もこの変貌には驚いた。ノイマンが関係していたある秘密プロジェクトの政府側の責任者は、この話を聞き「ノイマンはもうダメだ。あのような女々しい男になってしまったら、ポロッとこれまでの秘密を喋ってしまうかもしれない」と心配した。そして、変貌後のノイマンは家族も面会を禁じられるほどの厳重な管理下におかれ、闘病生活を送ることになる。かわいそうなノイマン! しかし、彼が関与していた秘密は、アメリカ合衆国の科学技術の8割を占める超トップ・シークレットだったのだ。それがもし国外に流出するような事態になれば、アメリカとソ連が握るパワー・バランスは大きく崩れることになったはずだ。こうした厳重な管理は必然的な処置であったのかもしれない。
 あのとき、もう少し冷静でいられればノイマンはもう少し幸福な最後を迎えられたかもしれない。しかし、ノイマンは彼が関わっていた計画の責任者たちにしか看取られず、告知から2ヶ月あまりで息を引き取った。悪魔の頭脳を持つ男の、あまりに孤独で不遇な死はアメリカはおろか、世界をかけめぐるトップ・ニュースとなり、東側諸国にも報じられた。