29

 太郎は深い水の底に体を横たえているような気分を長らく味わっていた。光も差し入ってくることのできぬ、深く暗い水の底。そこでは、脆弱な太郎の肺は水圧によって押し縮められ、空気が抜けた風船のようだった。息苦しい。まるで4畳半の狭い部屋の中でストーヴの火を焚き続けたような息苦しさだと太郎は感じていた。普段するように息を吸おうとしようとも、胸の上に重いものが載ったようで存分には呼吸ができない。ついさっきまでは、御庭街の高い空を飛ぶ鳶だったのに、いまでは水圧に押しつぶされ身体の自由が効かなくなっている状況を、太郎は奇妙に思った。しかし、それはまるで自分ではない第三者が何らかの苦難を受けているのを俯瞰するような、まるで他人事のような感覚である。苦しいが、痛みはない。太郎は、その不思議な感覚を自分の問題と捉えない。
 太郎は冷静に考え始める。ここはどこなのだろうか、この暗い水の底はどこなのだろうか。ここはチャムスではない(さっきまで俺はチャムスにいたはずなのに)。これは夢なのか(それにしては息苦しすぎる夢だ)。沢登軍曹はどうしたんだろう……。様々な謎は問いになり、問いは気泡へと――水の底からボコボコと湧き、水面へと浮き上がる泡のように浮かんでいった。光もなく、音もない水の底の世界に音を立てるのは、太郎の思念に立ち上ってくるそれらの問いかけだけだった。そして、その音を立てながら徐々に徐々に大きくなっていくような気がする。ボコ……ボコボコ……ディン……ディンデン………ポコ…………ポコポコ………。徐々に徐々に音は大きくなり、そして音色は金属質なものへと変化している。ボコ……ボコボコ……ディン……ディンデン……!音はますます大きくなる。そして、音量の増大とともに、徐々に徐々に光が見えてくる。ボコ……ボコボコ……ディン……ディンデン…………ディンデン!ツォンパ!!泡は、水面へと顔を出した瞬間、張力が耐え切れずに爆ぜる。
 そして、太郎の視界に現れたのは光、それから自分の体にかかった白いシーツの色だった。意識はすぐに明朗なものとなり、太郎は自分が寝台の上に寝ていたことに気がついた。そして彼はその傍らに、ひとりの若い女とひとりの年老いた男がいるのを認める。光には清潔感があり、空気は暖かい。ここは……?彼は、そのような空気をその瞬間まで知らなかった。彼が知るのは、豊かで暖かい御庭町の空気と、濁った陸軍訓練所の空気と、凍てついたチャムスの空気だけだったのだ。太郎はその空気が、白衣を着て寝台の傍らに立つ男の背中から立ち上っているような気配を感じていた。
――気がついたかね?
 太郎に向かってそう訊ねた男は、大日本帝国の人間の顔をしていなかった。男の肌の色は、まるで雪のように白く透き通っており、目の色は蒼い。それはチャムスで同僚の他に通常目にする、もともとその土地にいた人間とも違っていた。彼らの肌の色、目の色は、太郎やその同僚と同じく、黄色く、そして黒かったが、この男は違う。顔の中心に備わった、天狗のように高く、鋭く折れ曲がった鷲鼻は同じ人間とは思えない。
――私は、ウラディミール・ピョートルヴィチ・ヴィシネフスキー。チャムスに唯一いる医者だ。
 男は言った。男の声は、低い。しかし、老いを感じさせることなく、透き通っている。その音色を太郎はまるで聞いたことのない音楽のように耳にする。そして、その名前の響きはまさしく西洋人だ、と思う。それが彼にとって初めて西洋人を見る経験だった。ウラディミール・ピョートルヴィチ・ヴィシネフスキー。その音列も初めて聞くものだった。
――うなされていたよ。よっぽどひどくいじめつけられたらしい。
 男は続けた。そうか、俺はあの沢登軍曹に殴りつけられて気を失っていたのか……。西洋人の医者に言われて初めて、太郎の明瞭な意識は自分の今いる状況について理解した。ここは深く暗い水の底ではなく、チャムスにある診療所の病室なのだ。そして、そこまで気がついたときに太郎の顔面に激しい痛みが走る。鏡で見なければわからないが、沢登に痛めつけられた傷跡が太郎の顔にはっきりと刻まれているのだ。そして彼は、自分は今、どんな顔をしているのだろうか、と思い、自分をまだ見守っている医師へと鏡を貸してくれるように頼もうとした。
 しかし、声はでない。喉からはシューシューと声ではない音が漏れるばかりで、言葉が出てこないのだ。どうしてしまったのだろうか。まるで気を失っている間に、声の出し方を忘れてしまったかのようだった。なんとかしようと思っても、まったく思うように行かず、しまいに太郎はひどく噎せ始めた。喉と肺を繋ぐ気管に何かが詰まっているのだろうか。太郎は自分の体の異変を実感してから、そんな風に心配になった。
――無理しないほうが良い。ひどくショックなことがあると、人間は一時的に声がでなくなることがあるんだ。心配しなくて良い。じきに治る。
 医師の言葉が太郎に幾ばくかの安心を与えると、それまで医師の横にいた女がそっと鏡を差し出した。女、というよりも彼女は少女だった。顔はまだあどけなく、医師の声と同じように澄んだ目をしている。しかし、彼女は医師と同じ人種ではない。彼女は太郎や太郎の同僚と同じ肌の色と目の色をした人間だった。日本人なのだろうか?彼女の容姿を見たとき、太郎の頭にはふとそんな問いが浮かんだ。同時に太郎は、なぜ言葉をかけないのに彼女は鏡を渡してくれたのだろうか、と不思議に思う。彼女もまた言葉を発しなかった。
――彼女も今の君と同じように、声が出ない。もうずっとだ。ショックが大きすぎると、彼女のように症状が長引くことがある。
 医師は言った。太郎に鏡を渡した少女は、もうすでに何か別な仕事を始めている。
 鏡に映った顔は、やはりひどいものだった。左目の回りは青黒く変色し、右頬は腫上がっていて、ヨードチンキが塗られた跡が何箇所も残ったその顔は、怪談の登場人物のようだった。心なしか鼻もこれまでより少し曲がったような気さえする。これまで自分の外見に特別気を使うことはなかったが、自分の顔ではないようだ、これでは女はおろか、家族だって敬遠するだろう、と太郎は思った。
 しかし、太郎はそのとき、もっと重大なことに気がつく――今のあの医者の言葉は……日本語じゃ……ない……?
 そうだ。太郎に話しかけたとき、、ウラディミール・ピョートルヴィチ・ヴィシネフスキーが語りかける言葉は日本語ではない。彼が語るのは、彼の祖国の言葉、ロシア語だった。にも関わらず、彼の言葉の意味は太郎には伝った。鼓膜を震わす彼の透き通った音声は日本語ではなかったのにも関わらず、太郎はそれを理解した。無論、彼はこれまでにロシア語など習ったことがない。太郎は自分に強く問いかけた――俺に何が起きているんだ!?太郎は混乱する。そしてその彼を少し遠くから少女が見つめていた。彼女は微笑み、そして音声を伴わない口の動きだけで太郎にこう告げる。
 ディンデン・ツォンパ。