すべてを押し流す水の流れ

すべてを押し流す水の流れ

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ジェネシスが寝ていたベッドには、今日から新顔が寝泊りすることになった。これからはこいつが俺の相棒ってわけだ。俺より5つも若い高校を卒業したばっかりのガキだが、話を聞いたらコイツも俺と一緒で学校を出ても、生まれ故郷には仕事なんかなくて、軍隊…

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太郎は深い水の底に体を横たえているような気分を長らく味わっていた。光も差し入ってくることのできぬ、深く暗い水の底。そこでは、脆弱な太郎の肺は水圧によって押し縮められ、空気が抜けた風船のようだった。息苦しい。まるで4畳半の狭い部屋の中でスト…

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馬車のなかには、男が1人。この客を御者は大通りから少し外れた暗がりの道で拾ったが、彼は危うくこの男を轢き倒してしまうところだった。ひどい吹雪のなかを走っていた馬車が止まると男は「イリヤ・ピョートルヴィチ・ヴィシネフスキーの館まで送ってくれ…

27

「打ち合わせの時間が延びちゃってね、新幹線に乗るのが遅れてしまったんだ」 テーブルに近づいてきた男は、そう言って刑事と僕に詫びた。歳は30歳をちょっと過ぎたぐらいだろうか。もしかしたらもう少しいっているのかもしれない。無駄な肉のついていない…

26

この土地じゃ、病院ですらも砂っぽく、埃っぽい。こんなの俺の田舎でさえも信じられないことだ。くそったれ。廊下はまるで20年も掃除をしていない古ぼけた屋敷みたいに歩くとジャリジャリと音を立てるんだ。クソッタレイラク人のジジイが、モップをもって…

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チャムスに冬がやってくると、さすがの太郎も部屋でじっとしているだけの仕事をつらく思うようになった。大陸の乾いた空気は、肌に刺さるように冷たく、寝ている間に鼻の粘膜部分が切れて出血し、汗や垢で薄汚れた枕カバーに赤い斑点を作ることがよく起こっ…

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「腹立たしいったらありゃしない!」と言いながら、イリヤ・ピョートルヴィチ・ヴィシネフスキーの妻、ガリーナ・イワノフヴナは夫が皇帝に呼び出されるの待ち続ける宮廷の一室に怒鳴り込むようにして入ってくる。フランス貴族風に仕立てられた彼女の長いス…

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職員室で書類を片付けているところに、ポケットのなかの携帯電話が震えた。画面にはまた知らない電話番号が表示されていて、今度こそ例の刑事だろう……と僕は思った。「お忙しいところすいませんね……。F県警の小山です」と電話の相手は言う。僕の予想は当た…

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ジェネシスはしばらく入院。その間に、俺ともう一人は軍法会議にかけられた。俺たちが座らされた椅子のまわりには、陸軍のお偉方がずらり。なかには、偉すぎてこれまで一度も見たことない勲章だらけのオッサンもいた(後から話を聞いたら、そいつは湾岸でも…

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チャムスからハルビンへと、太郎は毎日定式化されたような肉声を送った。本隊への連絡チャネルへと周波数を合わせ「こちら第八方面部隊、小笠原二等兵であります」と受話器に向かって話しかけると、すぐに応答がある――「こちら、ハルビン。そちらの状況はど…

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イリヤ・ピョートルヴィチ・ヴィシネフスキーは代々ロマノフ王朝に仕える宮廷医の家の次男として生まれ、しかるべき教育を受けた後、父、ピョートル・イリイッチや兄、ウラディミール・ピョートルヴィチがそうしたように皇帝に仕える医師となった。医学を志…

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山之内先生の告別式の日は、朝から雨が降っていた。この地方で、夏の雨ほど嫌なものはない――室内の床に水溜りができるほど、湿気を含んだ空気がやってくるだけで、雨が降っても気温は晴れの日と変わらないぐらいに高いのだ。汗と湿気でシャツの袖がねばねば…

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太郎は自分が無線兵に任命されたことに戸惑いを見せた。なにしろ、彼が生まれた土地は、無線のような精密機械はおろか自動車だって見ることのできない田舎だったからだ。辛うじて文字が読めるほどにしか学もない自分がなぜこんな機械仕事をさせられるのだろ…

17

建物のなかで明かりになるものといったら、ガラスが全部割れちまってる窓から入ってくる月の光ぐらいのものだった。こんなに暗くちゃ、ジェネシスの肌の色は闇のなかに溶け込んじまって見えるはずがない――俺たちが暗視スコープを装備してたのは、自然な成り…

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酷く蒸し暑かったあの昼休みの出来事があってから、刑事の言葉は僕の頭のなかをぐるぐると回り続け、僕はとても煩わしいような気持ちを抱きながら生活しなくてはいけなかった。あのとき手渡された如何わしい液体の入ったプラスティック容器は、くたびれたス…

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本土を離れてチャムスに着くまでの半月以上の日々は、太郎にとってそれまででもっとも長い旅になった。その間に太郎は、目にしたことがなかったものをいくつも見た。旅の中継地点となった名も知らぬ占領下の町で観た建物は、本土にある木造の家屋とはまるで…

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イラクじゃ、誰もがうんざりしていた。街の中じゃ毎日銃声と女子供が泣き叫ぶ声が絶えなかったし、三日に一度はどこかからデカい爆発音が聞こえた。昨日の音は近かったな。また、自動車爆弾だったらしい。現場に出くわしたハワードの頭に、吹っ飛んできたバ…

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「実はですね。山之内先生が殺される前の晩、山之内先生が男と一緒に街の繁華街を歩いてるのを目撃したっていう人がいるんですよ。 しかも、その男っていうのが、日本人じゃない。ガイジン、それも黒人です。市街地でさえ、この辺じゃガイジンなんて珍しいで…

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太郎を孤独のまま置き去りにするかのように、早々と訓練期間の半年は過ぎ、彼は陸軍第二総軍第八方面部隊――通称、満ソ境界領域警備隊――へと配属を命じられた。同じころに訓練所に入れられた若者たちが一同に集められ、次々に激戦地へ向かう命令を受けている…

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「実はですね、殺された山之内先生の死体を解剖した結果、膣内から微量ですが男性の体液――というとなんだか回りくどいですが、要するに精液です――が発見されました。館内先生が見てのとおり、山之内先生の死体にはビーカー……じゃなかったな、ええと……メスシ…

10

代々の生業であった養鶏業に従事していた小笠原太郎の下に赤紙が届いたのは、1935年3月15日、彼が18歳になったばかりのことだった。 それからわずか一週間で、太郎が御庭町を出て東京に行くことが決まった。体格検査を経て(少しばかり体重が少なか…

外は空調が効いた職員室とは比べられないほど蒸し暑く、息を吸うと熱を持った湿気がのどを通っていくのが分かるぐらいだった。額に滲んだ汗を拭いながら駐車場まで出て行くと、刑事も同じく手に持ったハンドタオルで黒ずんだ顔をしきりに拭っていた(おそら…

極限状態にまでおいこまれた人が、その瞬間に超常現象的な体験をしたり、超自然的なものと出会った、という証言を残すことがある。 例えば、1972年、アメリカ・ノースダコタ州ではダグラス・フォックストロットという男性がなんの変哲もない真っ直ぐな道の続…

次の日、昼休み中の職員室で誰かが読みっぱなしで放っておいた地方紙を開くとテレビ面の裏に小さく山之内先生の死亡記事が出ているのに気がついた。 5日午後8時00分ごろ、F市立御庭中学校で飯沢町肥田野字岩堂31、同校教師、山之内揺美さん(28)が…

市街地と御庭町をつなぐ道は、一本の曲がりくねった道だけで、館内は毎日、この国道399号を使って通勤をしていた。彼がまだ初めての給料も入らないうちに、長いローンを組んでスカイラインを買うことになったのは、この山道をスポーツタイプの車でぶっ飛ばし…

あー。あー。あ、あ。マイク入ってるみたいですね。おい、ちょっと静かにしないか(体育教師の、ガサガサした低い声が、全校生徒108人の規模に合わせて作られた体育館に響き渡る)。 これから、校長先生から大事な話が君らにある。もしかしたら、君らは知っ…

黒のスカイラインGTRを降りて、僕を待っていたのは不気味なほどいつもと変わらない学校生活(教師生活)だった。職員室で変わったものといえば、いつもあの男性的な腕毛がたくましい、体育教師には相応しい腕をもった男がまとわりつくようにして立ってい…

館内が勤める御庭中学は、F県内でも一番小さな部類に入る公立中学だった。全校生徒は100人ちょっとで、各学年には1クラスずつしかない。ちょうど各学年に30人ほどの生徒がいるという状態は、過疎化が進む地域の学校を絵に描いてあらわしたようだった。 生…

携帯の着信音で目が覚めた。心臓がギュッと掴まれるような感じがしたのは、とっくに学校へと出かける時間を過ぎていたからだけじゃない。薄暗い部屋のなかで光る液晶画面に表示された、見知らぬ電話番号。昨日の刑事だろうか――「なにかあったら、また呼びま…