リツ

 犬塚リツが大戦後まもなくアメリカに渡ったのは、夢を追うために他ならなかった。横浜の長津田に漢学者の家の一人娘として生まれた彼女は、大戦中は田奈にあった弾薬貯蔵施設で働いていた。終戦時、18歳。彼女が働いていた施設は進駐軍によって接収されたが、そのまま彼女は施設で働き続けることを許された。彼女はそこで英語とタイプライターの技術を学んだ。彼女がそのような環境に恵まれたのは、彼女が若く美しかったからだ。その美貌は、進駐軍の若い兵士の目にも魅力的に映った。学のある兵士たちのなかには、「絹のように輝く黒い髪……」、「近づくとお茶のようなよい香りが……」などと自分が知っている日本の名産品と彼女の魅力を結びつけた詩を手帳にしたためる者もあった。リツの父、犬塚聡明は大戦中、愛国的儒家を標榜する思想家として安岡正篤などと行動をともにしていたが、安岡の公職追放と彼が設立した学校などがすべて解散させられると、ほとんど無職状態となっており、犬塚家の家計はリツによって支えられていた。もちろん、聡明は娘が進駐軍の膝元で金を稼ぎ、そしてその金で自分も生活しているなどという状況を内心快く思っているはずがなく、この頃からリツと聡明はしばしば衝突するようになった。家には、リツの母であり、聡明の妻であった犬塚テイの存在があったけれども、旧華族の家に生まれ、家の言うがままに聡明の下に嫁いできたテイが間に入って衝突を仲裁することなど思いつくはずもなく、父娘のいさかいは日に日に酷くなっていった。リツが映画と出会ったのも、父と激しい口論をし、とうとう家を飛び出した晩のことだった。彼女が街頭の少ない暗い道を当て所もなく歩いていると、進駐軍の兵士を相手にした屋台で賑わっているところに出くわした。一斗缶のなかで廃材が激しく燃え、その火があたりを照らし、日本人の演奏家たちが洋楽を奏でていた。背が高く、目の青い若者たちに酒をだしているのも、皆、日本人たちであり、そのなかには、リツの知った顔もあった。ついこの間までは、暗い顔をして怯えていた人たちがいまではこうして逞しく商売をしていることに彼女は安心し、同時にそれはむしゃくしゃとしていた気持ちをなだめてくれた。その晩、そこには移動映画館のテント小屋ができていた。彼女はそのテント小屋に不思議な引力を感じ、代金を払って入場した。テント内には、たくさんのアメリカ人兵士たちがいた。また、唇に派手な紅を塗った日本人娼婦が兵士の膝のうえにのり、くちづけの代わりに小銭をせびる姿もあった。日本人の女たちは、映画が始まるまでの間に、美しいがまるで生娘といった様子のリツを疎ましげに、そして遠慮なくじろじろと眺めていた。しばらくすると、小屋の中は暗くなり、そうしたまなざしはリツの元に届かなくなった。映画がはじまろうとしていた。

ノイマン・チルドレン

 ノイマンが最後に開いた乱交パーティーに女性を派遣したのも、ヴィクターであった。それはノイマンコロラド州某所にあったアメリカ軍の秘密病院施設に収容される二週間ほど前のことだ。ノイマンは依然として腑抜けのままであったが、その状態をみるに見かねたノイマンの悪友たちが自宅の寝室にこもりっきりであった彼を無理やりに連れ出し、パーティーを開かせた。ノイマンは最初乗り気でなかったものの、これが最後のパーティーになるかもしれない、という予感があったのかもしれない、彼は普段は使わないと決めていたコカインを吸引し、カーペットを年代モノのシャルル・エドシックでびしょしびしょにしながら、ペッペーマン・レディース・サーヴィスから派遣されてきた高級娼婦たちと事に及んだ。薬物による覚醒作用により疲れを忘れた悪魔の頭脳は、この日11人のさまざまな女性と交わった。そして、このとき射精されたノイマンの体液に含まれていた生殖細胞は、それぞれみな、相手方の卵子に到達し、受精する。驚くべき命中率。それはまるで一撃必殺のスナイパーのごときっだったが、この結果がコカインによる作用だったのか、それとも浴びすぎた放射線が彼の生殖細胞に授けた力によるものだったのかは分からない。しかしながら、ノイマン精子の中心小体から伸びた軸糸が通常の3倍の速さで振動していたことは、入院中に興味本位で彼の精液を顕微鏡で覗き込んだ医師によって記録されており、そこに何らかの要因が隠されていたのだろう。しかしながら、このとき誕生した受精卵が、皆ノイマンの忘れ形見として世に誕生したわけではない。妊娠の確率を決めるのは、精子の強さばかりではないのだ。受精卵のうちあるものは、着床できずにそのまま退化し、あるものは薬物の力によって強制的に排卵された。あるものは無事着床して成長していたものの堕胎手術によって誕生を阻害される。結果として、赤ん坊として母親の子宮から誕生することができたのは3つの受精卵だった。ノイマンが死んだ日の朝、ヴィクター・ペッペーマンはオフィスで自分の大口顧客が死んだことを知る。そして、次の瞬間、立て続けに鳴った3度の電話で彼は、自分が管理していた“女性スタッフ”が妊娠しており、仕事を続けることができなくなったことを伝えられる。女たちは皆口々に「どうも、ノイマンの子どもみたいなのよ」と話した。ヴィクターは、まるで冗談のようなこの報告の真偽に若干の不安を感じたものの、仮に冗談だったとしても面白い冗談だ、と思ったので、ご祝儀を兼ねた退職金を彼女たちの口座に振り込んでやることにした。

ヴィクター・ペッペーマン

 ヴィクター・ペッペーマンは、アメリカ西海岸の広い範囲に自分のなわばりをもついわゆる「女衒屋」として有名で、ノイマンが別荘で開く乱交パーティーにさまざまなタイプの美女を供給する役割を務めた男だった。フランクの父親、アンドラーシュ・ペッペーマンは、ナチス第三帝国がヨーロッパ東部を席巻する直前のプラハにおいて有名なユダヤ人投資家であり、彼ら一家がヒットラーの僕たちに追われて新大陸にやってきてからは、大人一人を軽く隠せそうなほど大きなスーツケースに詰め込んできた金塊を資金源にして、映画スタジオやレコード会社などのエンターテイメントに投資をして多大な利益を得ていた。彼ら一家の拠点はサンフランシスコにあり、そこには19世紀末の匂いがかすかに残っていたプラハの退廃や美学といった文化的風土はなかったけれども、おだやかな気候と中国人移民が経営する料理店のリーズナブルさは気にいっていた。父、アンドラーシュに投資の才能があったと同様に、ヴィクターにも才能があった。それが女性をその気にさせる才能だった。とはいっても彼が特別美男子だったわけでも、特別会話術に長けていたわけでもない。ヴィクターの容姿に関して言えば、ごく平均的ユダヤ人的特長をもつ男性、といった形容に相応しく、彼の顔の中心部に位置している立派な鷲鼻は、ヨーロッパに根強く残っていた反ユダヤ主義者たちの精神を刺激するには充分だった。それでは彼の何が女性を強く強く惹きつけ、そして、彼の言うことなら何でも従うようにさせたのだろうか。なぜ、女性たちは露出の多いみだらなドレスの下に、なにも身に付けず、ヴィクターが指示した場所で開かれる破廉恥なパーティに足を運ばんだのだろうか。その秘密は、晩年エチオピアに移住したヴィクター・ペッペーマンが突如としてイスラム教に改宗し、アムハラ語で執筆した自叙伝『神との邂逅』に詳しく書かれていると言うが、パピルスに直筆でかかれ、写本が世に3冊ほどしかないと言われているその本を確認できない現状では、ここでつまびらかにすることはできない。

ノイマンの最期

 「20世紀最大の頭脳」「悪魔の頭脳を持つ男」と呼ばれた科学者、ジョン・フォン・ノイマンはある日、アメリカ政府高官ご用達の検査医師であるフレックス・ハートから直接電話を受けた。「あなたの身体のことで重大な事実を知らせなくてはならない。家族とともに病院にいらっしゃってほしい」。電話口でハート医師はそう言った。ノイマンはすぐに妻と運転手を呼び、病院へと向かう準備をさせた。ニューヨーク郊外にある彼の豪邸から市街地の病院へは車で30分ほどかかる。ロールスロイス・ファントムIVの贅沢な水牛革張りシートに体をあずけて病院へ向かう途中、彼は頭のなかで適当な計算をして時間をつぶすことにした。ハート医師が言っていた「重大な事実」については一瞬たりとも意識の上にのぼらなかった。ノイマンは自分が天才であることは生まれたときから知っていたし、それは神(というものが存在するのであれば)に選ばれた人間である、という証でもあるはずだ、と認識していたので、ハート医師が予告した「重大な事実」が生命に関わるような事実であるはずがない、ということを確信していたからだ。そしてノイマンは、この時間つぶしの計算遊びの最中、この世界が11次元に渡って存在することに気がついた。「またひとつ、人類を格段に進歩させる発見をしてしまった」と彼は思った。しかし、彼にはその理論を証明するだけの時間が残されていなかった。太平洋上での核実験観察や、ロスアラモス国立研究所での核兵器開発中に彼が浴びた放射線の量は、彼の身体に悪性新生物を植えつけるのには充分なものだった。11次元宇宙の存在に気がついた彼は、ハート医師が待つ病室にて、すい臓がんを告知される。当時、ノイマンは53歳。科学者としてはもっとも脂が乗り切った、と言っても過言ではない年齢だった。
 告知後のノイマンの動揺の激しさは、ある意味、彼の晩節を汚すものだった、とも言われている。ノイマンといえば、20世紀科学のダ・ヴィンチとも称されるほどの、誰もが認める天才であったが、その性格は最悪であり、とくに女癖の悪さは有名だった。彼がサンフランシスコにもっていた豪勢な別荘では、定期的に乱交パーティーが開催され、ハリウッド女優やプレイガールたちがノイマンを喜ばせるたびに集まっていた。「数学的に言って、俺に抱けない女はいない」。ノイマンはそう豪語し、望みとあらば、ペンギンブックスの余白にその証明を書くことができた。しかし、告知後のノイマンは妻の膝で毎晩泣くようにして過ごすほど気弱な男になっていた。ノイマンの友人たちや、彼と一緒に仕事をしていた科学者たち、アメリカ政府高官もこの変貌には驚いた。ノイマンが関係していたある秘密プロジェクトの政府側の責任者は、この話を聞き「ノイマンはもうダメだ。あのような女々しい男になってしまったら、ポロッとこれまでの秘密を喋ってしまうかもしれない」と心配した。そして、変貌後のノイマンは家族も面会を禁じられるほどの厳重な管理下におかれ、闘病生活を送ることになる。かわいそうなノイマン! しかし、彼が関与していた秘密は、アメリカ合衆国の科学技術の8割を占める超トップ・シークレットだったのだ。それがもし国外に流出するような事態になれば、アメリカとソ連が握るパワー・バランスは大きく崩れることになったはずだ。こうした厳重な管理は必然的な処置であったのかもしれない。
 あのとき、もう少し冷静でいられればノイマンはもう少し幸福な最後を迎えられたかもしれない。しかし、ノイマンは彼が関わっていた計画の責任者たちにしか看取られず、告知から2ヶ月あまりで息を引き取った。悪魔の頭脳を持つ男の、あまりに孤独で不遇な死はアメリカはおろか、世界をかけめぐるトップ・ニュースとなり、東側諸国にも報じられた。

すべてを押し流す水の流れ

主な登場人物
         10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30

30

 ジェネシスが寝ていたベッドには、今日から新顔が寝泊りすることになった。これからはこいつが俺の相棒ってわけだ。俺より5つも若い高校を卒業したばっかりのガキだが、話を聞いたらコイツも俺と一緒で学校を出ても、生まれ故郷には仕事なんかなくて、軍隊に入ったってことらしい。ジョーと名乗ったそのガキは、西海岸のなんとかっていう田舎町の生まれで、親父が南米系で母親が中国系らしく、なんとも特徴がつかめない顔をしてやがる。彫りは浅く鼻も丸まっているのだが、浅黒い肌を持っていて何を考えているのかさっぱりわからねぇ。「軍隊は良いね。ご飯が3食出るし、お金ももらえる」なんてヤツは無表情な目で言う――というようなことを、俺はジェネシスからへの手紙の返事に書いておくった。あとは「相変わらず砂埃まみれの毎日だ」とかなんとか。
 なんの代わり映えもしない毎日だった。毎日、決まった時間に街をパトロールに出かけ、イラク人同士の間で何か揉め事が起きたらライフルをちらつかせておとなしくさせ、定期的にどっかで爆音が聞こえ、誰かが死ぬ。気が向いたら、その辺で暇をしていそうなやつに声をかけ、街に出かけて酒を飲んだり、イラク女を買ってみたりする。埃にまみれたメガネのレンズを拭きながら、仕方なく任務についている、って感じだった。あるとき、見知った顔が「イラクの治安を守る使命感を感じて、とてもやりがいがあります」なんて何かのインタビューに答えていたが、そんなものはくそったれだ。
 次第に俺は酒を飲む量や回数を増やしていった。自動車や建物にしかけられた爆弾が怖かったわけじゃない。ただ、現実から目を背けたいってだけの理由で。国に戻ってもやることはなく、食うためにはこの砂の街に留まるしかない、っていうのが心底嫌になってたんだな。俺はある日、隣のベッドで寝ているジョーに言った。「俺たちアメリカ人は、ここで一番えらい人間みたいに振舞ってる。ライフルを肩にぶらさげて歩いてたら、そんなえらそうな態度に出たくなるのが自然かもしれないけどよ。だが、実際はどうだ。俺たちはこの街に縛られてるんじゃないか?」と。そのとき、俺はもちろん酔っ払っていた。クアーズの缶を6本とテキーラをショットで4杯。ジョーにそう言ったときも片手に握ったクアーズの缶には、温くなったビールがまだ半分ぐらい残っていた。ヤツは返事をしなかった。自分のベッドに寝転がったヤツは、俺の話を無視して読んでいた本のページをめくっていた。ガキだから理解できなかったのかもな。
 だけども、俺はガキに無視されたのが気に食わなくて、あとガキに無視された俺が、ひどい酔っ払いになってる俺自身の姿が気に食わなくてさ。本当だったら怒るところかもしれないけどよ、そんときはなんか辛い気持ちになったんだよな。で、飲み残こしたビールをぐっと煽ったんだ。でも、全然気分は晴れないんだよ。そういうのってなんとなくわかるかな。飲んでも飲んでも、わだかまりみたいなものが残る感じでさ。でも飲まなきゃやってられない、と思って。まだ、もっと飲まなきゃ、って気分よ。でも、部屋に備え付けの冷蔵庫を開けて見たら、もうビールのストックが切らしてて、もう絶望的な気分さ。
 だから、俺はまた外に飲みに行こう、って思ったんだな。夜の11時ぐらいだったかな。とっくに消灯時間が過ぎてたし、任務以外の外出は禁止の時間だったが、そんな規則は関係ない。宿舎を囲んでるバリケードなんか簡単に乗り越えられるし、門番役の歩哨も大体は知った顔で、いくらか渡してやったら自由に通してくれるしよ。ちょっとふらつく足取りで部屋を出たんだ。
 宿舎を出たら寒かった。中東の砂漠地帯が昼も夜も年中暑い、ってイメージがあるかもしれないけどさ、砂漠って南国と違って結構夜は寒いんだよな。俺もこっちに来て初めて知ったんだけどさ。毎日半袖でいれるのかな、って思ったら大間違い。夜はジャケットを着てても寒くてやってられないんだよ。春夏秋冬ちゃんとあって、雪だって降るんだ。
 俺は寒いのを我慢しながら、深夜でもやってるバーを目指した。そこは完全にアメリカ人目当てに商売をしてる店で、店主はイラク人なんだが、イスラームの戒律なんかてんで無視して酒を売ってくれる、そういう店だった。どこで手に入れたかしらないが、そこにいくといつでもビルボード・チャートに入ってるような音楽が聞けたから、夜は大体、市街地ようの迷彩服をきた同僚で一杯だった。そのときもドアを開けるとそんな感じさ、イラク野郎なんか1人もいやしない。
 馬鹿話を続けながらゲラゲラ笑っているそいつらの間を潜り抜けながら、俺はカウンターのひとつだけ開いてたスツールに腰かけて、店主にジャック・ダニエルのダブルをロックで頼んだ。だが店主の答えはこうだ。
「すいませんな。こちらのお客さんでジャック・ダニエルをちょうど切らしちまったんですわ」
 俺の隣にいた男を手で示して、ヘタクソな英語で店主は言った。俺はまたそれで少し嫌な気持ちになったが、仕方がない。俺は「なんでも良いから強い酒、持ってきてくれ」と乱暴に言葉を返した。
「どうも、すみませんね」
 すると、隣にいた男が話しかけてくる。話し方は店主とは月とスッポン。どこの紳士だと思うほど穏やかな声で男は言った。俺は恐縮してしまい、しどろもどろ「いえ……平気です……」と言うのが精一杯。年は40を過ぎたぐらいのその男は迷彩服を着ておらず、顔つきや言葉の感じからして同僚には見えなかった。本国からきたジャーナリストかなんかか、と俺は思っているとそのうちに店主が戻ってきて、ショットグラスに入った緑色の液体を置いてった。一口啜ってみると口の中が熱くなり、鼻に空気がすっと抜け、薬を間違えて飲んだような変な味がした。確かに強い酒だった。俺は店主にこれはなんだ、と訊ねた。
「なんでい、しらねぇんですかい。こいつぁ、アブサンですわ。ウチじゃあ、スピリタスの次に強い」
「それにしても変った味だ」
 俺はひとりごとっぽくそう呟くと、それを聞いていたのか隣の男がクスクスと笑いながらこっちを見ている。なんだか不気味なオッサンだ、もしかして俺は狙われてんのか、なんて訝りながら、俺はそいつを無視してチビチビとやることにした。
「あなたには見覚えがある」
 もう一度、男が話しかけてきやがったとき、俺はいよいよこいつはオカマ野郎か、と思って「悪いけど、俺にはそんな趣味ないぜ」って言葉が喉元まで出掛かっていた。
「あなた、もしかして、ピーター・ガブリエルくんのところにお見舞いに来られた方じゃないですか?」
 そう言われた俺は男の顔を見て、ハッとした。そいつはジェネシスの野郎の主治医だったんだ。俺はそれでまたしどろもどろ。元から飲みすぎていたせいで呂律が回ってなかったかもしれないが、なんと返したものやら分らず、ひどく驚いたふりをして「白衣を着ていなかったから分らなかった」とか「偶然ですね」とか言った。もっとも、なぜそこまで慌てる必要があったか自分でもよくわからなかったけどな。

29

 太郎は深い水の底に体を横たえているような気分を長らく味わっていた。光も差し入ってくることのできぬ、深く暗い水の底。そこでは、脆弱な太郎の肺は水圧によって押し縮められ、空気が抜けた風船のようだった。息苦しい。まるで4畳半の狭い部屋の中でストーヴの火を焚き続けたような息苦しさだと太郎は感じていた。普段するように息を吸おうとしようとも、胸の上に重いものが載ったようで存分には呼吸ができない。ついさっきまでは、御庭街の高い空を飛ぶ鳶だったのに、いまでは水圧に押しつぶされ身体の自由が効かなくなっている状況を、太郎は奇妙に思った。しかし、それはまるで自分ではない第三者が何らかの苦難を受けているのを俯瞰するような、まるで他人事のような感覚である。苦しいが、痛みはない。太郎は、その不思議な感覚を自分の問題と捉えない。
 太郎は冷静に考え始める。ここはどこなのだろうか、この暗い水の底はどこなのだろうか。ここはチャムスではない(さっきまで俺はチャムスにいたはずなのに)。これは夢なのか(それにしては息苦しすぎる夢だ)。沢登軍曹はどうしたんだろう……。様々な謎は問いになり、問いは気泡へと――水の底からボコボコと湧き、水面へと浮き上がる泡のように浮かんでいった。光もなく、音もない水の底の世界に音を立てるのは、太郎の思念に立ち上ってくるそれらの問いかけだけだった。そして、その音を立てながら徐々に徐々に大きくなっていくような気がする。ボコ……ボコボコ……ディン……ディンデン………ポコ…………ポコポコ………。徐々に徐々に音は大きくなり、そして音色は金属質なものへと変化している。ボコ……ボコボコ……ディン……ディンデン……!音はますます大きくなる。そして、音量の増大とともに、徐々に徐々に光が見えてくる。ボコ……ボコボコ……ディン……ディンデン…………ディンデン!ツォンパ!!泡は、水面へと顔を出した瞬間、張力が耐え切れずに爆ぜる。
 そして、太郎の視界に現れたのは光、それから自分の体にかかった白いシーツの色だった。意識はすぐに明朗なものとなり、太郎は自分が寝台の上に寝ていたことに気がついた。そして彼はその傍らに、ひとりの若い女とひとりの年老いた男がいるのを認める。光には清潔感があり、空気は暖かい。ここは……?彼は、そのような空気をその瞬間まで知らなかった。彼が知るのは、豊かで暖かい御庭町の空気と、濁った陸軍訓練所の空気と、凍てついたチャムスの空気だけだったのだ。太郎はその空気が、白衣を着て寝台の傍らに立つ男の背中から立ち上っているような気配を感じていた。
――気がついたかね?
 太郎に向かってそう訊ねた男は、大日本帝国の人間の顔をしていなかった。男の肌の色は、まるで雪のように白く透き通っており、目の色は蒼い。それはチャムスで同僚の他に通常目にする、もともとその土地にいた人間とも違っていた。彼らの肌の色、目の色は、太郎やその同僚と同じく、黄色く、そして黒かったが、この男は違う。顔の中心に備わった、天狗のように高く、鋭く折れ曲がった鷲鼻は同じ人間とは思えない。
――私は、ウラディミール・ピョートルヴィチ・ヴィシネフスキー。チャムスに唯一いる医者だ。
 男は言った。男の声は、低い。しかし、老いを感じさせることなく、透き通っている。その音色を太郎はまるで聞いたことのない音楽のように耳にする。そして、その名前の響きはまさしく西洋人だ、と思う。それが彼にとって初めて西洋人を見る経験だった。ウラディミール・ピョートルヴィチ・ヴィシネフスキー。その音列も初めて聞くものだった。
――うなされていたよ。よっぽどひどくいじめつけられたらしい。
 男は続けた。そうか、俺はあの沢登軍曹に殴りつけられて気を失っていたのか……。西洋人の医者に言われて初めて、太郎の明瞭な意識は自分の今いる状況について理解した。ここは深く暗い水の底ではなく、チャムスにある診療所の病室なのだ。そして、そこまで気がついたときに太郎の顔面に激しい痛みが走る。鏡で見なければわからないが、沢登に痛めつけられた傷跡が太郎の顔にはっきりと刻まれているのだ。そして彼は、自分は今、どんな顔をしているのだろうか、と思い、自分をまだ見守っている医師へと鏡を貸してくれるように頼もうとした。
 しかし、声はでない。喉からはシューシューと声ではない音が漏れるばかりで、言葉が出てこないのだ。どうしてしまったのだろうか。まるで気を失っている間に、声の出し方を忘れてしまったかのようだった。なんとかしようと思っても、まったく思うように行かず、しまいに太郎はひどく噎せ始めた。喉と肺を繋ぐ気管に何かが詰まっているのだろうか。太郎は自分の体の異変を実感してから、そんな風に心配になった。
――無理しないほうが良い。ひどくショックなことがあると、人間は一時的に声がでなくなることがあるんだ。心配しなくて良い。じきに治る。
 医師の言葉が太郎に幾ばくかの安心を与えると、それまで医師の横にいた女がそっと鏡を差し出した。女、というよりも彼女は少女だった。顔はまだあどけなく、医師の声と同じように澄んだ目をしている。しかし、彼女は医師と同じ人種ではない。彼女は太郎や太郎の同僚と同じ肌の色と目の色をした人間だった。日本人なのだろうか?彼女の容姿を見たとき、太郎の頭にはふとそんな問いが浮かんだ。同時に太郎は、なぜ言葉をかけないのに彼女は鏡を渡してくれたのだろうか、と不思議に思う。彼女もまた言葉を発しなかった。
――彼女も今の君と同じように、声が出ない。もうずっとだ。ショックが大きすぎると、彼女のように症状が長引くことがある。
 医師は言った。太郎に鏡を渡した少女は、もうすでに何か別な仕事を始めている。
 鏡に映った顔は、やはりひどいものだった。左目の回りは青黒く変色し、右頬は腫上がっていて、ヨードチンキが塗られた跡が何箇所も残ったその顔は、怪談の登場人物のようだった。心なしか鼻もこれまでより少し曲がったような気さえする。これまで自分の外見に特別気を使うことはなかったが、自分の顔ではないようだ、これでは女はおろか、家族だって敬遠するだろう、と太郎は思った。
 しかし、太郎はそのとき、もっと重大なことに気がつく――今のあの医者の言葉は……日本語じゃ……ない……?
 そうだ。太郎に話しかけたとき、、ウラディミール・ピョートルヴィチ・ヴィシネフスキーが語りかける言葉は日本語ではない。彼が語るのは、彼の祖国の言葉、ロシア語だった。にも関わらず、彼の言葉の意味は太郎には伝った。鼓膜を震わす彼の透き通った音声は日本語ではなかったのにも関わらず、太郎はそれを理解した。無論、彼はこれまでにロシア語など習ったことがない。太郎は自分に強く問いかけた――俺に何が起きているんだ!?太郎は混乱する。そしてその彼を少し遠くから少女が見つめていた。彼女は微笑み、そして音声を伴わない口の動きだけで太郎にこう告げる。
 ディンデン・ツォンパ。