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 この土地じゃ、病院ですらも砂っぽく、埃っぽい。こんなの俺の田舎でさえも信じられないことだ。くそったれ。廊下はまるで20年も掃除をしていない古ぼけた屋敷みたいに歩くとジャリジャリと音を立てるんだ。クソッタレイラク人のジジイが、モップをもってし切りに床を拭いているんだが、見ていて哀れになるぐらい何の意味も無い行為に思えちまう。自動ドアが開くたびにロビーに砂が吹き込んでくるんだからな。
 ふたたび、俺がその砂だらけの廊下を通ってジェネシスを見舞いに行ったのは、あの馬鹿げた神様の話を聞いてから1週間してのことだ――まったく本当にふざけているとしか思えない。ジェイムス・ブラウンが神様だってよ。たしかにヤツはゴッドファーザーだったかもしれないが、片手じゃ足りない逮捕歴を持った男が神様になれる天国なんか、フランク・ザッパが大統領になれるアメリカみたいなものじゃないか。一体、やつはどうしちまったんだ?


「おう、やっぱりお前か」
 俺は病室のドアをあけると、ジェネシスは開口一番にそう言った。足にはまだギブスがついたままだったが、ヤツは随分元気になっているように見えた――少なくとも白いシーツが敷かれたベッドの上で『ペントハウス』を読むぐらいには。
「やっぱり?どういうことだよ」
 と俺は言った。
「ああ、なんだかお前が来るような予感がしたんだよ。予感、というのは正確じゃないかもな。誰かが教えてくれるような感じがするんだ。『病室に誰が来るか』とか『明日の天気』とかをよ」
「もしかして、JBがか?」
 と俺は尋ねた。またおかしなことを言い出してるぜ、この野郎、と思いながらだ。だが、俺はヤツを馬鹿にしたような調子を言葉には含ませなかった――だって、可哀想だろう?ヤツは俺の仲間だったし、ホントに頭がおかしくなってたかもしれないんだからよ。
「そうかもしれないな」
 参ったね、と俺は呆れそうになった。しかし、そう言ったジェネシスの表情は、いつになく複雑な感じだ。というか、俺はヤツのあんな顔を見たのは初めてだったかもしれないね。大体、俺はそのときまで黒人ってヤツがそういう顔ができる人間だって思ってなかったんだ――ヤツらはいつだって、怒ってるか、笑ってるか、イイ気持ちなってるか、その3パターンの顔しか見せないもんだと思ってた。


「お前のほかに、何人も見舞いに来てくれたよ。キースも、アルバートも、ブライアンも。それに、ほら、アイツ、俺たちと一緒にあの夜、夜警に出てたヤツもさ。俺は来てくれたヤツみんなに例のJBの話をしたんだ。ヤツらの反応はどんなだったと思う?」
 ヤツは今にも泣き出しそうな、そんな調子だった。まるで夏の田舎道で、夕立が来るかこないか図りかねる空模様みたいな感じだ。分かるかい?さっきまで、コンバーチブルのルーフを開けっ放しにしてぶっ飛ばしてるときに、地平線の向こうから黒っぽい雲が浮かんだときの不安な気持ちを。俺はヤツの口からどんな言葉が出てくるか、ずっと不安な気持ちだった。誰だって自分の仲間が狂った証拠を掴んだりなんかしたくないさ。
「ヤツらは、誰も俺の話をマトモには聞いてくれなかった。アルバートなんか、最後まで聞き通しさえせずに病室を出て行っちまったよ。ゲラゲラ腹を抱えて笑いながら看護婦と一緒に戻ってきて『コイツ、頭が狂っちまったみたいなんですよ!熱い注射でも一本打ってやってくれねえかな、看護婦さん』なんて言うんだぜ。誰もが俺を狂人扱いした。誰も信じてくれないんだ。だけどよ、俺はハッキリと聴いたんだ、死ぬか死なないかって間際にJBの『SEX MACHINE』を!お前だけ。お前だけだよ、俺をバカにせずこうして2度も見舞いに来てくれるのはよ!」


「おい、落ち着けよ」
 と俺は言った。しかし、俺にはジェネシスを侮辱したヤツらの気持ちが痛いほど分かった。そして、次にとても悲しい気持ちになったんだ――ジェネシスは、マジでおかしくなっちまったんだ。ジェネシスは人からおちょくられやすいタイプのヤツだったが、決して悪いヤツじゃなかった。ヤツの陽気さはうんざりする戦場での、数少ない楽しみだったんだ。しかし、もうヤツは戻ってこない。戦友だったジェネシスは、月の裏側に行っちまった。今目の前にいるは、かつてのヤツの抜け殻みたいなものだ。
 ジェネシスの狂気を確信すると俺まで泣きたい気持ちになった。最初に聞かされたときよりずっとひどい。こんなにまで自分の見た幻覚に囚われているなんて。
「昔話したかもしれないけどよ、俺の兄貴ってさ、優秀な人間なんだ。俺と違ってよ。高校のときからクソ田舎で『TIME』だの『NYタイムズ』だの読んでるようなインテリだったんだ。兄貴は大学で哲学を勉強していたらしい。と言っても俺には兄貴が何を勉強していたか、さっぱり理解できなかったけどさ。『早く勉強なんか辞めて田舎に金でも送ってくれれば良いのに』と思ってた。
 そんな兄貴が、こんな話をしてくれたことがある。
『人間は、自分の世界しか見ることができない。他人の世界を見ることはできない。人間が他人を本質的に理解できないのは、それが理由なんだ。分かるか?もし、俺がお前のことを本当に理解できたというのであれば、俺はお前の世界を見ているということになる。つまり、俺とお前は他人じゃなくなってしまう。だが、そんなことは実際には不可能だろう?だから、俺はお前のことを理解できないし、お前は俺のことを理解できない』
 これはヨーロッパのなんとかっていう偉い学者の考えだそうだ――誰だか名前は忘れちまったが、そいつはゲイだったらしい。まったく、そんなことばかり覚えてるんだな、俺は。しかし、俺はそれを聞いて『なるほど』と思ったんだよな。モーガンがアナルでさせてくれないのも、そいつが理由なのかってな。
 つまり、どういうことか分かるか?キースもアルバートもブライアンも、お前の世界を見ていない。いや、見ることはできないんだ。だから、お前は理解されなくても当たり前なんだよ」
 俺は、子供を扱うみたいにしてジェネシスに言い聞かせた。ヤツにこんな話をしても無駄な相手に変っちまったかもしれないのに一生懸命だった。
「お前ってホント良いヤツだな」。
 しばらくして、ポツリとジェネシスは言った。それを聞いて、俺はますます泣きたい気持ちになっちまった。
 とにかく、3度目の見舞いはこんな感じだった。できれば次には見舞いに行きたくない。そんな気持ちに俺はなっていた。


 俺がヤツの病室から出ようとしたとき、ヤツは言った。
「医者が言うにはよ、もうすぐ退院できるらしいんだよな。もちろん、ギブスは外せないけどよ。で、軍の偉い人は退院したら国に戻っても良いって言ってるらしい」
「おお、そりゃ良かったな」
 と俺は言った。
「でもよ、俺、国に戻る前に一度日本に行ってみようかと思ってるんだ。お前、どう思う?ここから船で帰るにしても飛行機で帰るにしても一度ヨコスカに止まるだろ?そのとき、ちょっと陸に下りられるだろ?」
「良いんじゃないか?良い気分転換になるだろ」
 俺はもうどうでも良い気持ちになっていた。とにかく、そのときは早く病室から出たかったんだ。何を言い出すかわからないヤツと一緒にいるだけで俺は疲れきっていたんだな
「行かなきゃいけない。そんな気がするんだよな……」
 病室のドアを閉めるとき、ドアの隙間からヤツが東を向いた窓をじっと眺めているのが見えた。時間はもう夕方になっていた。窓のカーテンは閉まったままで、空中を舞った砂の影響なのか、赤紫に不気味に染まった空の光が白い布をサイケデリックなクラブのように染めている。ヤツが何を考えながら、それを眺めていたのかは分からなかった。


 それから俺がジェネシスを尋ねていくことはなかった。俺がその後にヤツの消息を知ったのは今日届いたヤツからの手紙でだ。