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 チャムスに冬がやってくると、さすがの太郎も部屋でじっとしているだけの仕事をつらく思うようになった。大陸の乾いた空気は、肌に刺さるように冷たく、寝ている間に鼻の粘膜部分が切れて出血し、汗や垢で薄汚れた枕カバーに赤い斑点を作ることがよく起こった。もちろん、染みを作ってしまえば上官からきつくしかられてしまう。賢い隊員たちは寝る前にあらかじめ鼻の穴に小さくちぎった綿を詰めて、二段ベッドに入っていた――そうしなければ、万が一寝ている間に鼻血が出てしまった場合には、起床とともにチャムスの町の中心部に備え付けられた井戸まで駆け、上官の点呼の前に冷たい水でカバーを洗わなくてはいけないはめになる。井戸の水に触れると針が突き刺さるような痛みが指先に走り、朝食で箸がうまく扱えないほどに悴んだ指先の感覚が戻ってくるのには日が昇りきるぐらいまでの時間がかかる。
 太郎が篭りつづける通信室には暖房器具が用意されていなかった――もっとも、この町でそのような設備が備え付けられていたのは陰で「無能」呼ばわりされている将校の寝室だけだったのだが。吐く息は室内でも煙のように白く、外套をまといながら太郎は本隊からの通信を待った。そうでもしなければ、すぐにでも肺を病むような温度だった。窓に張り付いた氷は日中になっても融けることがなく、弱く短い太陽の光を一層弱くするおかげで部屋はいつでも明け方のように薄暗かった。雪が降って窓ガラスが完全に塞がれてしまえば、まるで夜のようにもなりランプが必要になってしまう。
 次第に太郎の意識は現実から離れていった。なにしろ、意識を現実へとつなぎとめておくものは何一つ存在しなかったのだ。太郎の意識は、通信室から自由に遠ざかって行く。そこで太郎は、いつも白昼夢のような映像を観た。それは通信室で受信信号を放つことがない機械と向き合うよりもずっと現実感を強くもった不思議なものだった。
 あるとき、太郎は自分が御庭町の空を飛ぶ一羽の鳶になっていることに気がついた。鳶になった太郎の視力は、人間であるときのそれより優れており、空中を円を描くようにして飛び回る間に彼は町で起こっていることがなんでも認めることができた。御庭町にも雪は積もっている。太郎は、美しい絹布の上に蟻が這っているのを眺めるような気持ちで、町の人びとを見た。あれは、猛夫さんではないだろうか。こんなに雪が積もっているのに、畑に出かけるなんていつもながら殊勝なことだな。うちの親父は何をしているのだろうか。
 町には自分と同じ年頃の若い男はひとりもいなかった。皆、自分と同じように戦場に行ってしまったのだろう。
 そう思った瞬間に、太郎の意識はまた別の世界へと飛んだ。視界には煤けた色をした木製の扉が入った。これは通信室の扉じゃないか、と太郎は気がついた。さきほど鳶になっていたときのように、自分の意思で視界を動かすことはできなかった。太郎の意識とは無関係に視界は動いている。毛深く節だった男の手がドアノブにかけられ、扉が開かれるのが見える。部屋のなかには、目を瞑って椅子に座る太郎の姿がある。
「貴様!居眠りをしておったな!!」
 怒号によって、太郎の意識は太郎の肉体へと戻った。太郎が驚き、椅子から立ちあがって声のする方向を向くとそこには自分を睨み付ける沢登の姿がある。その表情は冷静だったが、その冷たい表面の奥には激しい怒りが燃えるようにしてあるのが読み取れた。強い恐怖に襲われた太郎は声が出ず、歩み寄ってきた沢登が、罵倒とともに2発、3発と殴りつけるのを黙って耐えた。「このド田舎出のクソガキが」。「俺がせっかく楽な仕事につかせてやったのに、居眠りなんぞしやがって」。「恩知らずめ」。沢登の声が聞こえるたびに、太郎の顔には激しい痛みが走った。その痛みは久しぶりに味わう現実の感覚だった。白昼夢のような幻影が見せる現実感よりも深刻な、鋭い痛み。
 7発目に加えられた裸の拳が与えた痛みは、太郎の意識を再び遠のかせていく。今度は幻影をみない。訪れた深い闇が太郎の意識を掴んでいる。