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 「腹立たしいったらありゃしない!」と言いながら、イリヤ・ピョートルヴィチ・ヴィシネフスキーの妻、ガリーナ・イワノフヴナは夫が皇帝に呼び出されるの待ち続ける宮廷の一室に怒鳴り込むようにして入ってくる。フランス貴族風に仕立てられた彼女の長いスカートを、自分で踏みつけてしまいそうな勢いに夫、イリヤ・ピョートルヴィチは驚きを隠せなかった。「どうしたんだ?」とイリヤ・ピョートルヴィチは妻に向かって穏やかに尋ねる。彼女のあとに続いて部屋に入ってきた従者たちは、皆、バツの悪そうな表情を浮かべてイリヤ・ピョートルヴィチの目を見ようとした。
「なにもかにも、あのラスプーチンとか言う坊主が悪いんですわ!」
 そう言ってガリーナ・イワノフヴナは尚も甲高い声を上げた。その声は、イリヤ・ピョートルヴィチに、モーツァルトの書いた傑作オペラ《魔笛》における夜の女王を思い起こさせる。たしかに彼女はかつて、元々ペテルブルク歌劇場の花形ともいえるソプラノ歌手だったのだが、その美声は今ではイリヤ・ピョートルヴィチの鼓膜を煩わしく振るわせる単なる高い声に過ぎなかった。
「あの怪しい男、このままでは何をしでかすかわかりませんわ!」
 ガリーナ・イワノフヴナは続ける。
「ちょうど、昨日でしたわ。そう昨日はアナタがちょうどお祖父から頂いたカルテ用の万年筆を居間に置き忘れたんでしたんでしたわね。それをあなたに届けようと思って、宮廷まで来たんですのよ。そうしたら、あの忌々しいグリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンと偶然出会いましてね。あの男、こう言いますのよ。
 『あら。これはこれは。皇帝の寵愛を受ける宮廷医、イリヤ・ピョートル・ヴィチ・ヴィシネフスキーの奥様、ガリーナ・イワノフヴナ様ではございませんか。ごきげんうるわしゅう』。
 こんな風に声をかけられ、私も立ち止まって会釈ぐらいはしましたが、特に言うこともありませんから、そのまま通り過ぎようとしましたの、これまでグリゴリー・エフィモヴィチなどという男とはほとんど言葉を交わしたことなどないんですもの。すると、あの汚らしい男は私のお腹に突然手をかけまして……その……とても厭らしく私のお腹を撫で回すんですの――もちろん私はすぐさま『何をするんです!恥を知りなさい!!』と言いました。
 するとあの忌々しい坊主め、薄気味悪く笑いながらこう言ったんですのよ。
 『なに、奥様、心配することはございません、へっへっ!こう見えても、あっしは地元じゃあ、アッシジの聖フランチェスコの生まれ変わりなんて呼ばれておりました。こうしてあっしが貴婦人のお腹を撫でさすりますと、あら不思議、その貴婦人という貴婦人は子宝に恵まれてですね!もう、それはそれは大変なご盛況でございました!』
 アッシジの聖フランチェスコですって!まったく、馬鹿げていますわ!本当にかの聖人の生まれ代わりだというならば、あのパーティーで、さも美味そうに鳥の丸焼きをかぶりつく姿はなんだったのと言いますの?!」


 グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンに反感を抱くのは、妻、ガリーナ・イワノフヴナだけではないことをイリヤ・ピョートルヴィチは理解していた。実際、グリゴリー・エフィモヴィチが宮廷に姿を現してはじめてからというもの、イリヤ・ピョートルヴィチを巡る環境は激変していたのだ。現代医学ではどうにもならない問題、ヴィシネフスキー一族全体の問題として考えられていたアレクセイ皇太子が患う不治の病。これが事の発端だった。
 夜になればアレクセイ皇太子は発作を起こし、「イリヤイリヤ!」と苦しみ紛れに喚く。すると、イリヤ・ピョートルヴィチは毎晩、飛ぶようにしてアレクセイ皇太子へと特別に誂えられた、イリヤ・ピョートルヴィチが待つ医療室と隣り合わせとなる部屋へと向かわねばならない。しかし、その夜もおちおちと寝ていられぬ日々は、グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンの登場によって終わる。
 宮廷には3ヶ月に一度、極東から珍しい陶磁器や美術品の類を運んでくる商人いた。己を「アッシジの聖フランチェスコの生まれ変わり」と呼ぶ汚らしい身なりの祈祷師は、そのシベリア出身の商人へと連れられて、初めてペテルブルクの大理石造りの床へと足を踏み入れた。商人は自分の後ろに、何年も洗っていないような法衣を着た汚臭のする男を跪かせ、皇帝に対して鮮やかに彩られた清の焼き物を差し出してこう言う。
「皇帝閣下!この者、なんと『アッシジの聖フランチェスコ』の生まれ変わりと称される男であります。閣下がご存知の通り、聖フランチェスコと言えば医療を司る聖人でもありますな。私も何度もこの男が起こす奇跡を目撃しております。この男はホンモノでありますよ。脚萎えの乞食の前で祈り、通風病みの職人の前で祈り……すると、たちどころに病んでいた部分が消え去ってしまうのです。近頃、ペテルブルク界隈で評判の男です――さて、どうでしょう。この者に一度アレクセイ皇太子殿下を見てもらっては……」
 話を聞いた皇帝は、厳しい目で商人を見つめ、しばらく考えてから従者に向かって「その者を、アレクセイの元へ連れて行きなさい」と言った。もし商人の話が嘘だったとしたら、ふたりまとめて銃殺刑にでもかけてしまえば良い。罪状は侮辱罪でもなんでも良いだろう。皇帝は、今までに何度も祈祷師と名乗る男が目の前に現れたことを思い返す。どの男も皆ニセモノだった――皇帝の失望の度、彼らニセモノの祈祷師たちの血が流された。しかし、ヴィシネフスキーの一族でさえどうにもすることができないアレクセイ皇太子の病はもはや奇跡にでも頼るほか無かったのだ。だから、ニセモノの祈祷師たちの流血は止まらなかった。
 玉座に座る皇帝は従者からの報告を待った。しばらくするとドアが開き、先ほど部屋を出て行った従者が戻ってきた。従者の表情は、あきらかにいつもとは違う。皇帝も自分の目が信じられないでいた――何しろ、ここ何週間もベッドから置き出すことができなかったはずの息子が、従者に手をひかれて自分の元へとやってきたのだから。
 「閣下……信じられません」と従者は涙さえ浮かべながら報告をする。
「あの男、皇太子殿下のベッドがあるお部屋に行きますと、すぐにはベッドに近寄らずに、胸元から十字架を取り出しましてそれで何度も空中を切るようなしぐさをしました。それから『あなたには見えますまいが、こうして悪霊を退治しているのですよ。なにしろ、皇帝閣下の一族というものは業の深い方々でありますからなあ』などと申しておりました。 そして部屋中に聖水を振りまきながら、殿下が眠るベッドへと近づいていったのです。あの男は殿下の額に手を置きながら、なにやらまじないごとのような言葉をずっと呟いておりました――不思議だったのは、そのときから急に部屋が暖かくなったように感じられたことです。まるで、火の消えかかった暖炉に油を注いだような、そういう空気に包まれたような感じでした。
 あの男は、ひとしきりまじないの言葉を言い終えると、殿下の額から手を離し、握りこぶしを作った右腕をゆっくりと天井に向けて伸ばしていきました。そして、大きな声で『目覚めよ!』と叫んだのです。部屋は静まり返りました。殿下はまだすやすやと眠っておられました。『この男も単なるインチキ祈祷師だったのか……』と失望しかけた、そのときです。殿下が目を覚まされたのです。
 殿下は目の前に立ったあの男を不思議そうに眺めながら『急に具合が良くなった』と一言おっしゃいました。それからご自分でベッドからお起きになったのでございます。昨日まで全く起き上がれなかった殿下がでございますよ!――長年、閣下の下にお仕えしてまいりましたが、私、あのような奇跡を見たのは初めてでございます。閣下、あの男はホンモノです」
 報告が終わると、皇帝は玉座から立ち上がり、震える手で我が子、アレクセイ皇太子を抱きしめる。その姿に、従者は涙を堪え切れずに大きな声を出して泣いた。その場で、ほっと安堵の息をついたのはシベリア出身の商人であり(実際のところ、彼はそれまでグリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンのことを半分疑っていたのだ)、頭の中では既にこの男を皇帝に紹介したことでももらえる褒賞の計算が始まっていた。
 「して、あの男はどこに?」と皇帝は従者のほうへ振り向きながら言う。「ハッ。部屋の前で、待たせております」と涙を拭いながら従者が答えるのを聞くと、皇帝はすぐさま新しい法衣をグリゴリー・エフィモヴィチに与えよと言い、それから盛大な晩餐の支度を命じた。また、商人にはロマノフ金貨を30枚を。それから清められたワインと花火の準備を。
 その夜、皇帝は真新しい法衣を着たグリゴリー・エフィモヴィチの手を硬く握り「貴殿はロマノフ王朝の友だ!」とまで言った。皇后、アレクサンドラ・フョードロヴナもグリゴリー・エフィモヴィチを優しい抱擁で迎える。晩餐の間、アレクサンドラ・フョードロヴナの目はずっとシベリアの農村からきたというこの得体の知れない祈祷師の姿を追い続けている。ダルムシュタット公国からロマノフ王朝へと嫁ぎ、農村の人間はおろか市政の人々ですらまともに見たことが無かったアレクサンドラ・フョードロヴナの目には、手を汚しながら料理に貪りつく野蛮な男の姿は珍しい生き物のように映る。かつてフランスを旅したときに観た、動物園の檻の中にいた白い虎のことを彼女は思い出す。夫である皇帝や宮廷で会うことのできる男たちとはまったく違った魅力をその野蛮な男に感じているのに自ら気がついたアレクサンドラ・フョードロヴナは一瞬顔を赤らめ、それから水で薄めた赤ワインを飲んで心を落ち着かせた。


 このようにして見事に皇帝の信頼を勝ち取ったグリゴリー・エフィモヴィチは、アレクセイ皇太子の命を救った奇跡の人物、「神の人」、「アッシジの聖フランチェスコの生まれ変わり」として宮廷内で特殊な権力を持つようになる。しかし、グリゴリー・エフィモヴィチに対する皇帝のはからないは、誰しもが納得できるようなものではない。特に、それまで皇帝に仕えてきた優秀な役人たちは、グリゴリー・エフィモヴィチが政治にまで口を出そうとするのには我慢がならなかった――ある日、皇帝から税務を任されていた役人、アレクセイ・コンスタンチノヴィッチは、グリゴリー・エフィモヴィチが皇帝に豚の頭蓋骨を見せびらかし「閣下、これからあっしがこの豚の骨でもって、商人から取る事業税を占ってしんぜましょう。これは古くはドルイド僧にも伝わっていた伝統的な方法でしてなよく当たるのですぞ。かつての東ローマ帝国でも採用されていた方法だとも言います……」などと囁くのを聞いた。皇帝がそれをみて「ほう、やってみせてくれ、我が友」とまんざらでもないというような言葉を返すのが、アレクセイ・コンスタンチノヴィッチは信じられない。役人たちの不信と不満は徐々に高まっていった。
 グリゴリー・エフィモヴィチにまつわる破廉恥な噂も宮廷では飛び交っている。皇后、アレクサンドラ・フョードロヴナはあの汚らわしい男を間男にしている。皇帝が4人の皇女の一人をグリゴリー・エフィモヴィチの慰みものするために差し出した。毎晩、宮廷に確保された自分の部屋にうら若き乙女を何人も集め、地獄のように淫らな蛮行を繰返している。役人たちの妻が顔をあわせれば、こういった噂で持ちきりだった。
 イリヤ・ピョートルヴィチも無関係ではない。そもそも、グリゴリー・エフィモヴィチが現れたことによって、ヴィシネフスキー一族の面目は丸つぶれになったのだ。今では、皇帝がイリヤ・ピョートルヴィチを晩餐に招いてピアノを弾かせるなどといったことは稀になってしまった。
 そのうちにグリゴリー・エフィモヴィチを宮廷から追放しようという動きがどこからか湧いてくる。それは当然な流れと言っても良いものだった。