23

 職員室で書類を片付けているところに、ポケットのなかの携帯電話が震えた。画面にはまた知らない電話番号が表示されていて、今度こそ例の刑事だろう……と僕は思った。「お忙しいところすいませんね……。F県警の小山です」と電話の相手は言う。僕の予想は当たっていた。
「例のピーター先生が来るの、明日でしたよね?その前に少しお話できないかと思いまして……」
「……電話じゃダメですか?少し仕事が残っているので」と僕は答えた。
「ちょっとお見せしたいものもありますのでね。直接お会いしたいんですよ。こちらは待てますので、どうにかお時間を頂戴できないでしょうか?そうですね、市内のバロック通りに『危険な関係』というお店があります。何時でも結構です。そこでお待ちしていますよ」と刑事は食い下がった。
 「9時過ぎにはそちらに着くと思います」と僕はしばらく間を置いてから刑事に伝えて、電話を切った。職員室から離れたところにある体育館からは剣道部の部員たちが、不気味な鳥のような金切り声をあげて練習しているのが聞こえた。時間はもう7時を回っている。書類を片付ける前に、あいつらを追い返さなきゃいけないな、と僕は思った。


 『危険な関係 リエゾン・ダンジュルース』。都会の人間なら失笑してしまう店名が、ショッキングピンクのネオン・サインで示されているので店の場所はすぐに分かった(おそらく、こんなことでもなければ一生足を踏み入れない場所だったろう)。「館内先生!」。店のドアを空けると刑事がすぐに声をかけてくる。薄暗い店内には刑事が以外に客はいない。
 僕が席に着くと退屈そうに煙草を吹かしていた店員がすぐに注文を取りに来た。「コーラを」と店員に伝えると、刑事はわざとらしく驚いた様子で「え?先生、飲まないんですか?」と言う。彼が必要以上に大きな声を出すので、刑事がかなり飲んでいるらしいことが分かる。
「いえ、車で来ているので」とテーブルの上に載ったウイスキーのグラスのなかで氷が融けかかっているのを見ながら僕は言った。
「気にしないでくださいよ!ほら、ここに代行のチケットもありますから!どうぞ!使ってくださいよ!」
 刑事はそう言って、無理やり僕にチケットを握らせる。そしてカウンターに戻った店員へと目配せすると、しばらくしてコーラの注文がビールになって出てくる。僕は店員からその中ジョッキを受け取って、抗議もせずにせずに飲んだ。刑事に渡されたチケットを押し返したり、注文が違うと店員に文句を言う――そういったことが少し面倒に思われたのだ。「暑いですからねえ。仕事のあとに冷たいビールを飲む。これはひとつの喜びってもんです。そうでしょう?」という刑事の言葉にも僕は返事をせず、黙りきったままビールを一口、二口と飲んでいく。
 空になった中ジョッキをテーブルに戻すと刑事は「いい飲みっぷりですねえ」とまた声をかける。いつのまにか刑事の顔にはあの嫌らしいにやけ面が浮かんでいた。
「で、話ってなんです?まさか、ご機嫌をとるために僕を呼び出したわけじゃないでしょう?」と僕は言った。
「おっと、そうでした……いけませんね。酒を飲むと仕事のことなんか忘れちゃうんですよ、私って奴は」と刑事は言って、煙草に火をつけた。僕は天井に向かってハイライトの濃い煙を吐き出す刑事の顔をじっと見つめている。
「お話したいことは2点ほどあります。ひとつは、山之内先生の妹さんのことです。山之内先生の告別式があった日からだ。毎日、妹さんが署に電話をかけてくるんですよ。『嘘をついてるんでしょ!本当のことを教えてよ!』ってね、毎回受話器の向こうで喚くんですよ――まぁ、私が対応するわけじゃないんですがね。
 告別式には出席されてましたよね?先生、彼女に何を話したんです?困るんですよねえ、勝手なことされちゃあ……。相手はちょっとおかしくなってるのかもしれないですよ。『マスコミに訴えてやる』なんて言い出すんですからね」
「たしかに僕は告別式に出席しました。でも、妹さんには何も話してはいない。ちゃんとシラを切り通しましたよ。面倒でしたしね」
 僕は正直に答えたつもりだった。それでもなお、刑事は僕を疑わしい目で見続けている。そのまなざしはいつものように僕を不快にさせた。
「第一、あなた方も嘘をつくならもう少しマシな嘘をついて欲しいですよ。『死因が心臓が破裂』ですって?世の中のどこに失敗したら心臓が破裂するような理科の実験があるって言うんですか?妹さんが疑いを持つのも当たり前だと思いますね」
 僕はそういって皮肉を言う。だが、それは刑事の顔に苦笑も反感も浮かばせなかった。刑事はきょとんとした様子で黙っている。僕の言葉の何が刑事の不意をついたのかは分からなかった。
 刑事が何も言わないでいると『危険な関係』の店内は妙に静かに感じられた。音楽はなにもかけられていない。威勢良く冷気を吐き続ける空調のモーター音だけが耳に入ってくる。店の外からは何の音も聞こえてこない――バロック通りはF市で一番の繁華街であるはずなのに、午後9時ともなれば誰も外を出歩かなくなる。それは衰え行く地方都市を象徴するような現象だった。
「先生ね、ちょっと勘違いをしてますね。まあ、私が何も言っていなかったせいだと思うんですが……。『死因が心臓破裂』っていうのは嘘でもなんでもありません。先生は、首に巻きついたゴムホースとか、アソコにぶち込まれたメスシリンダーとか、そういうものが死因になってるとお思いだったんでしょうね。でも、それは違う。文字通りです。心臓がね、破裂しちまってるんですよ。体の内側で。ゴム風船が地面に叩きつけられたみたいにしてね」
 今度は僕が驚かされる番だった――一体、何をされれば人間の心臓が破裂するというのだろう。ごくシンプルに、僕はその点を疑った。「どうして……?」。僕の質問に刑事はただ「わかりません」と言った。
 「しかしね、こういう謎の部分を隠しておく。こういうのは後々面倒なことを引き起こしやすい。こういう判断は長年刑事をやってると身についてくる勘みたいなものです。だから、私が隠してるのは『事故じゃない』ってことなんですよ」と刑事は続ける。僕には彼が言う勘についても上手く理解できなかった。
「まあ、良いです。しかしですね、これ以上、あの妹さんが騒ぎ出すと、もっと面倒になるかもしれない。具体的に言えばですね、このことが小笠原仁海の耳に入るかもしれない。こうなったらマズいことになるでしょう。
 お分かりかもしれませんが、彼はこの土地じゃあかなりの権力を持っている。それに行動が恐ろしく速い。まるで千里眼でも持ってるような情報網を持っている。そして、一番怖いのがやるときは徹底的にやる、ということです。
 もしかしたら、あの妹さん、消されちゃうかもしれませんなあ。何はともあれ、余計な仕事はこちらも増やしたくないわけなんですよ。この件についてはもう少し真剣になっていただきたい。これはお願いと言うか、忠告ですね。先生は面倒なことお嫌いでしょう?」
 僕は黙って頷く。刑事は3本目の煙草に火をつけたところだった。刑事は顔をしかめながら深く一口吸い、それから「マスター、これ(と言って、刑事は空になったグラスをカウンターの方へと掲げた)お代わり!あとビール、2杯追加ね」と言う。
 2杯?――僕は刑事の意図を確認するようにして、目線を彼の顔に向けた。1杯は僕の分だろう(僕のジョッキはしばらく前から空になっていた)。けれど、もう一杯は?
 しかし、僕と刑事の目線は合わない。彼は、店のドアの方を見ていた。「遅いですよ」と刑事は再び声を張り上げる。
 振り返ると、いつのまにかそこには一人の男が立っている。どこかで見たことがある男だったが、誰かまでは思い出せない。細身に仕立てられた流行の型のスーツを上手く着こなしたその男の姿は、寂れた街のバーにはとても不釣合いに思える。刑事と同業の者ではないことだけはすぐに分かった。