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 イリヤ・ピョートルヴィチ・ヴィシネフスキーは代々ロマノフ王朝に仕える宮廷医の家の次男として生まれ、しかるべき教育を受けた後、父、ピョートル・イリイッチや兄、ウラディミール・ピョートルヴィチがそうしたように皇帝に仕える医師となった。医学を志すことはヴィシネフスキー家に生まれたイリヤ・ピョートルヴィチにとって当たり前のことだったし、疑うことのできない道だった――彼の最初の記憶は、ペチカの前に座った母、アンナ・ドブローヴナに抱かれながら壁に飾られた歴代の家長の肖像画を眺めたことだ。そこで母は言った。「イリューシャ。あなたもおじいちゃんたちのように、立派なお医者さまになるんだからね。それがヴィシネフスキー家の生まれた男の子の宿命なんだから」。幼い彼には、その宿命が自らの幸福を約束してくれる輝かしいものに思えた。
 イリヤ・ピョートルヴィチは紛れも無い天才だった。高等数学や生物化学といった、ペテルブルク医学院に入学するために必要な科目は、12歳にしてほぼ充分に体得されており、このことは父、ピョートル・イリイッチや当時、医学院の学長を勤めていた祖父、イリヤ・ピョートルヴィチを驚かせた。祖父、イリヤ・ピョートルヴィチも皇帝の寵愛を長らく受け続けた優秀な内科医だったのだが、同じ名前を授けられた孫がそのような才能を示したことで一族の今後の安泰を確信した気持ちになった。そして、孫が無事に医学院へと入学したのを見届けたあと、すぐさま全ての職を退いて、その3年後に食あたりで死んだ。
 イリヤ・ピョートルヴィチは学問だけでなく、音楽でも類まれなる才能を発揮した。社交界では長い間、音楽が流行しており、ピョートル・イリイッチもその界隈ではバリトンの名人として名を馳せていたのだが、イリヤ・ピョートルヴィチのピアノの腕前は、父の美声が素人に毛が生えた程度に思えるほど素晴らしいものだった。初めて彼が鍵盤に触れたのは8歳のときだったが、10歳のときには、ヴィシネフスキー家の館にあったプレイエル社製のチッペンデールを誰よりも上手く弾くことができるようになっていた――そのピアノは、母の嫁入り道具のひとつであったのだが、彼がリスト編曲によるベートーヴェン交響曲を弾くのを聴いて「あれは、もうイリューシャのものね」と言葉を漏らしたという。
 この音楽的才能によって、一時はドイツから招かれていた有名なピアノ教師にペテルブルク音楽院への入学を強く勧められるのだが、イリヤ・ピョートルヴィチはその要請をきっぱりと断った。「既に入学の許可は取っておいた」、「君はモーツァルトにもショパンにも、リストにもなれるのだよ」と言うピアノ教師に向かって、イリヤ・ピョートルヴィチは言った――「残念ですが、先生。音楽によって人を救うことはできません。私は医者になるべきなのです。音楽は趣味にとどめておくべきでしょう」。自分の腰ほどしかない身丈の少年が、凛とした態度でこのような意見を述べたことはピアノ教師を驚かせたのは言うまでも無い。しかし、この言葉は「自分の手でこの神童を育てることはできない」ということをピアノ教師に痛いほど理解させるものだった。
 20歳になったイリヤ・ピョートルヴィチは自らの専門を外科医にすることに決めた。一度読んだ本はほとんど忘れることがないほどの記憶力を持つ天才は、何の専門家にでもなれた――努力家のウラディミール・ピョートルヴィチは父の後を追うように内科医となって既に宮廷のなかで働き始めていたが、まだ学生の時分からイリヤ・ピョートルヴィチは兄と対等の内科専門の医学的知識を有していたのだ。どの専門を選ぶか、選択肢はいくらでもあった。
 彼が外科医(刃物を使い、血を見なければならない世界だ)となったのは、意外にも彼の音楽的才能と関係していた。鍵盤捌きが、外科手術に必要な手先の器用さを育ててくれたことはもちろんのことだが、ピアノは彼に集中力と一瞬の判断力を与えてくれていた――「君のメスの使い方には、まったく迷いがないね」。ある日の実習中(それは生きた犬の腹を切り、内臓の位置を確認するものだった)、自分より年上の医学生イリヤ・ピョートルヴィチの後ろから声をかけた。その瞬間に、イリヤ・ピョートルヴィチは、自分が何らかの生命に鋭利な刃物を向けているときと鍵盤の前に座り楽譜に書かれた音楽と対峙しているときとで同じ感覚に陥っていることに気がついた。
 「僕は、ベートーヴェンを蘇らせるようにして、患者の命を救えるのかもしれない」とイリヤ・ピョートルヴィチは思った。そして、その目論見は見事に当たっていた。医学院を卒業したのちに、彼はすぐさま「皇帝の外科医」として召抱えられ、数々の難手術を成功させた(彼がいれば、アレクサンドル2世も助かっただろう、とさえ評された)。そして、その殊勲を称えられ、皇帝から数々の勲章を授けられた。
 40歳になって、彼は異例の若さでペテルブルク医学院の学長へと就任する。その地位は、父であるピョートル・イリイッチから受け継いだものであったが、文句を言う者は誰もいなかった。兄、ウラディミール・ピョートルヴィチでさえも当然のこととしてそれを受け入れた。イリヤ・ピョートルヴィチの胸には、ニコライ2世の第3皇太子が、落馬し、瀕死の重症を負ったのを自らのメスで救った際に皇帝から送られた勲章が輝いていた。重たく、不自由に感じされるほどたくさんの勲章のひとつひとつがなぜ自分に与えられたのか。イリヤ・ピョートルヴィチは全ての勲章について記憶していた――例えば、左胸の右から2番目の銀製の勲章は、とある皇族の妻がひどい難産だったとき得たものだ。
 自分は幸福だ。考えられる全ての幸福を自分は手にしている。ヴィシネフスキー家の宿命は正しかった。イリヤ・ピョートルヴィチは、そう思った。ひどく忙しい日々が続くこともあったが、苦にならなかった。今では、美しい妻も息子(息子もまた、ヴィシネフスキー家の宿命に従うのだろう)もいる。いまだにピアノは弾いていて、皇帝の前でピアノを弾く名誉ある機会に恵まれることもある。なにも言うことはない。
 この華やかで豊かな日々が永遠に続けば良きますように、とイリヤ・ピョートルヴィチは毎朝寝室に飾られたイコンの前に跪いて祈りを捧げた(彼は、熱心な正教徒だったのだ)。しかし、グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンという男が宮廷にあらわれたときから、イリヤ・ピョートルヴィチの人生は大きく揺れ動きはじめるのだった。