19

 山之内先生の告別式の日は、朝から雨が降っていた。この地方で、夏の雨ほど嫌なものはない――室内の床に水溜りができるほど、湿気を含んだ空気がやってくるだけで、雨が降っても気温は晴れの日と変わらないぐらいに高いのだ。汗と湿気でシャツの袖がねばねばと腕に絡みつくような感じがし、出かける前からひどく重たい気持ちになった。本来ならば慣例として僕なんかが出席する必要はなかったのに。「第一発見者」になったせいで、こんな不快な目にあっている。式の間はずっと誰かに八つ当たりしたくなるような気分だった。
 山之内先生の父と母、そして妹の泣き腫らした悲痛な面持ち。あけられることの無い棺の前で泣き崩れ、焼香もまともに出来なかった山之内先生の友人(学生時代の友人だろうか?)。彼らの姿を見ても、共感できるとか一緒になって泣けるといったことは一切無く、心が重くなるだけで早く式が終わってくれることばかり考えてしまう――出棺が終わったときに、ほっとため息が出たのはそのせいだった。早くこの重苦しい礼服を脱いでしまいたい、と僕は思った。早々と会場を後にしたかった。
 しかし、山之内先生の妹がそうさせてくれなかった。
「あの……第一発見者だった館内先生って……」
 傘を差して霊柩車の行った方向を眺める参列者たちに背を向けて歩き始めた途端に、僕はそう呼び止められた。姉とは似ていない妹。きっと、彼女は山之内先生の母と義父との間に生まれたこどもだったのだろう。ヒールを履けば僕よりも背が高くなった先生の背の高さは、彼女に引き継がれておらず、涙で化粧の崩れた顔は僕の胸あたりの位置にあった。
「この度は……どうもご愁傷さまでした」と僕は改めて形式的な挨拶を彼女に返した。
「少しお話をうかがっても大丈夫ですか?」

 こうして僕は山之内先生の実家の玄関で再び靴を脱ぐ羽目になった。彼女は二階にある部屋に案内した。「ここ、姉の部屋なんです」と彼女は言う――若い女性が好みそうな女性作家の小説がいくつかと一緒に、中学理科の参考書や内容の想像がまったくできない理系の専門書が並んだ本棚を見て、それは予想できた。部屋の中には、先生がいつもつけていた香水の甘い香りがまだ残っていた(それで、また僕の気分は重くなった)。クリーム色のカーテンと、濃い色をした木目のキャビネットとデスク。雑誌で見るような感じにまとめられた小奇麗な部屋は、山之内先生のイメージにぴったりだったのだがそこには何の感動もなかった。
「似てないでしょう、私たちって」
 彼女はデスクの上にあった写真立てを手にとって話を始めた。写真には、シンガポールマーライオンの前でピースサインをする山之内先生が写っていた。
「でも、私たち姉妹ってこう見えてすごく仲良かったんですよ。血も半分しか繋がっていなかったし、顔も性格も学校の成績も全然違かったのに。普通、姉がああだと嫌な思いをたくさんして妹は卑屈になったりすると思うんですけど、姉はそんな経験を全然させてくれなかったんです。
 いつも、私のことを姉は守ってくれました。姉は面倒見も良くて。アクセサリだとか、洋服だとか、化粧品だとか、よく私に買ってくれたりして。綺麗な顔しているせいか『怖い人だと思われる』って姉は愚痴ってたんですけど、あんなに優しい人はいないと思ってました。
 そんな姉のこと、私は大好きでした。そう思っていたのは、もちろん私だけじゃなくて父も母も同じ気持ちだったと思います。だから、なおさらショックも大きいのわかりますよね?みんな、姉があんな風に死ぬなんて、いまだに信じられないんですよ」
 僕は無言で頷いた。
「うまく気持ちの整理ができないんです。とくに姉が何で死ななきゃいけないのか、ってずっと考えてしまうんです。警察の人は『事故だ』って言ってました。でも、理科の実験の準備で人が死ぬことなんてあるんですかね?
 警察の人は遺体も見せてくれませんでした。なにか隠してるみたいな感じなんですよ。姉の遺体が運び込まれたときには、すでに立派な棺に入っていて。そんなことを普通警察の人がしてくれるのもおかしいと思うんです」
「あの……じゃあ、ご家族の方は皆さん、見られてないんですか?」
 次第に声を大きくする彼女に、僕はそう口を挟んだ。「なにか隠してる」――彼女の疑いを刺激しないように、できるだけ冷静な声で言おうと心がけたつもりだったのだが、出てきた声は少し上ずってしまっていた。しかし、あの遺体を見せられたら、誰も事故だなんて信じられないだろう。
 僕の問い掛けに首を縦に振った彼女の目には、また涙が浮かんでいた。
「だから、余計に複雑な気持ちになるのかもしれません。だって、信じられますか?死んでる姿も見せられてないのに『事故で亡くなりました。事故原因は現在調査中です。遺体は損傷が激しくなっているので、見ないほうが良いでしょう』なんて言われて、受け入れることなんてできるわけないじゃないですか!
 私たちは、一生懸命警察の人にお願いしました。一目で良いから見せてくれ、って。でも、絶対に見せてくれないんです。母なんか泣きながらお願いしたのに、ダメだ、やめたほうが良いの一点張りです。おかしいですよね。あっちは、私たちの気持ちを考えたつもりだったのかもしれませんけれど、まるで間逆です。結局、私たちは姉の最後の姿を見られないままになってしまいました。
 館内先生は見たんですよね?」
「ええ……」と僕は言った。
「どんなだったんですか?新聞にも事故の状況なんか一切書いてありませんし、警察の人も教えてくれません。私たち、ホントに何も知らないんです。姉の直接の死因が心臓の破裂だった、といわれたぐらいで。
 お時間をとらせてしまって申し訳ないんですけれど、もしよろしかったら私たちの前で姉がどういう風に倒れていたのかとか話していただけませんか……?第一、本当に事故だったんですか?事故だったように見えましたか?」
「申し訳ないんですが……たしかに見てはいるんです。僕もショックで実はよく覚えてないんです……だから、期待にこたえることはできないと思います。本当に何もお伝えできることはないと思います……」と言って僕は頭を下げた。今度はまともな声が出た。もちろん、これは嘘だ。山之内先生が倒れている姿は、すぐにでも吐き気を催すぐらい鮮やかで陰惨な記憶として頭に刻み込まれている。血液の臭い、飛び散ったガラスの破片、紫に変色した肌の色、絶望的に歪んだ表情――僕はスラスラと彼女に伝えることができた。しかし、そうすれば今以上に面倒くさいことに巻き込まれてしまうだろう。自分の身を守るために嘘をついたのはほとんど反射的だった。
 それにしても「心臓の破裂」だって?警察ももうちょっとマシな嘘をついてくれよ、と僕は思った。怪しまれるのは当然だろう。
 僕の言葉を受けて、彼女は俯いて黙っていた。顔は見えないが、小刻みに肩が震える肩の動きで涙を流していることは分かった。可哀想だけれど、でも、仕方がないのだ――僕はそう思いながら、彼女が顔をあげて僕を帰してくれるのを待っていた。
 彼女はしばらく泣き止まなかった。それどころか、次第に嗚咽は大きくなっていき、首筋がどんどん紅潮していくのが見えるぐらい彼女の泣き方は激しく変化していった。
「帰ってください……」と彼女は俯いたまま言った。
「……何も伝えられないなんて……そんなこと言われても信用できません……警察に口止めされてるとしか思えません……ホントにひどい………でも…これで確信しました………みんな嘘をついてる………事故じゃない何かが起こったんだって」