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 酷く蒸し暑かったあの昼休みの出来事があってから、刑事の言葉は僕の頭のなかをぐるぐると回り続け、僕はとても煩わしいような気持ちを抱きながら生活しなくてはいけなかった。あのとき手渡された如何わしい液体の入ったプラスティック容器は、くたびれたスラックスのポケットのなかに入りっぱなしで部屋の隅っこに脱ぎ捨てられたまま、もう2晩も過ぎている。その間に、あれをさっさと処分してしまうこともできたのだし、あるいは自分から警察署に電話をかけて刑事を呼び出し話を進めることだってできたはずだ。
 でも、僕はそのどちらも、というよりも何の行動もとらなかった。代わりに僕がやったことといえば、普段の通りに学校に行き、授業と書類の整理を黙々とこなし、校長や教頭らと一緒に山之内先生の葬儀に出席したことだけだった。同僚と同じように、事件にまったく関係ない人間だ、というふりをし続けていれば、そのままやりすごせるんじゃないかと、楽観的に構えていたのだ。
 しかし今になってみると、僕の思惑とは別に、自分の身に降りかかってくるさまざまな煩わしさは雪だるま式に大きくなっていくように感じる。
 通夜があった晩――その日まで僕は山之内先生が御庭町で実家暮らしをしていたことを知らなかったのだが――まず驚いたのは遺族である両親と彼女の妹が、死んだ山之内先生とはまったく似ていなかったことだ。通夜の場で、そんな印象を抱いたのはとても不謹慎な事柄だと思う。
 しかし、そう感じたのは僕だけじゃなかった――校長などは、誰が遺族であるのか検討もつかず、挨拶する相手を探してうろたえるばかりだったし、「妹さん、全然似てないですね」と仙波先生は僕に耳打ちした。最終的に校長がその場で一番美人だった女性に挨拶をしたのだが、それは告別式の打ち合わせにきていた葬儀屋の人だった。
 それぐらい彼らの顔には、山之内先生の痕跡らしきものが一切存在していなかったのだ。山之内先生のマネキンのように整った鼻梁の代わりに、山之内先生の母親は泥団子のようなものを備えていたし、父親の唇は山之内先生の薄くて上品な唇とはまるで別物だった(父親のそれは、気味の悪い2匹の芋虫が蠢いているみたいだった)。悪意のある魔法使いによって痕跡が無理やりに剥ぎ取られ、後には無残な廃墟だけが残った――そんな印象を僕は抱いた。同僚もおそらく似たようなものだったろうと思う。
 空けられることのない棺と、顔の似ていない遺族。それらは、山之内先生の不在をより一層強く感じさせる。棺のなかにいる山之内先生は、きっと僕が最後に見たままの表情だったろう。なにかの記念写真から引き伸ばされた粒子の粗い遺影のなかで、山之内先生が浮かべる笑顔は空虚なものにも思えた。
「どうやったら、あの両親からあんなに綺麗な人が生まれたんでしょうね」
 仙波先生は僕に再び、そう耳打ちする。その言葉からは、山之内先生を最後までモノに出来なかった男の口惜しさのようなものも滲み出ていた。
 「恵理子は……私の本当の、血の繋がった娘ではありませんでした……」と込み上げてくる嗚咽を堪えながら途切れ途切れに父親は言った(この言葉に僕らが納得させられるものを感じたのは言うまでもない)。