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 本土を離れてチャムスに着くまでの半月以上の日々は、太郎にとってそれまででもっとも長い旅になった。その間に太郎は、目にしたことがなかったものをいくつも見た。旅の中継地点となった名も知らぬ占領下の町で観た建物は、本土にある木造の家屋とはまるで違っていた(壁の色は北上するごとに色あせていくように思えた)。食事に出される野菜はどれも本土で取れるものより大ぶりで、味はなんとなく薄く感じられる。市場にいくと知らない川魚の干物が売られていた。ハルビンで迎えてくれた部隊の伍長に無理やり連れて行かれた慰安所で太郎は初めて女を知った。
 しかし、どれも太郎の心を揺らしてはくれなかった。夜毎慰安所や酒場に繰り出す他の男たちはカタコトの日本語を話す大陸の女や、大陸の祭楽隊が演奏する日本の民謡に歓びを感じた。自分の顔ほどもある大きなカブには無邪気に驚いて見せた。ラビャスリと呼ばれる川魚の干物は、少し炙って食べると酒の肴にはぴったりだった。なにより、皆大陸の開放感に浸りきっていたのだ。彼らにとって戦争は、単なる殺し合いではなかった。彼ら――とくに貧しい農村出身の次男坊たちだったが――は、大陸に対して夢を抱きながら海を渡ってきた。太郎だけが違ったのだ。
 太郎の相手をした少女の、あばら骨が浮いた胸や扱けた頬は、ますます重い気持ちにさせられた。ぼそぼそとするばかりで土の味がまったくしないダイコンを、かみ続けるとどんどん虚ろな気持ちになった。干物を売る煤けた顔の老婆は、死んだ祖母のことを思い起こさせた――「ああ!懐かしき御庭の風景よ!!」。ひどく色の濃い染みのように、太郎の心には御庭町の記憶がこびりついていた。
 本土を出る前に、上官は「大陸での移動の途中、もしかしたら野戦になるかもしれん。気を抜くな。田舎に反乱をもくろむ輩がうようよしてるというからな」と太郎に伝えた。しかし、そんな危険な気配はどこにも感じられなかった。この穏やかさも、太郎を暗い気持ちにさせた。チャムスに着いた日の朝、太郎は「この土地で自分は死ぬのかもしれない、ここに延々と留まることになるのかもしれない」と思った。戦争が終わるか、戦争で死ぬか。そうでもなければ、本土には、御庭町には帰れまい。しかし、戦争が終わる気配は一切なかった(そもそも太郎にはまだ戦争が、はじまっている実感さえなかったのだ)。
 死んで、骨になるまで帰れないだろう。いや、骨さえも本土に運んではくれないかもしれない。そうなれば、煙になるしかない。煙になれば、大陸と本土を隔てる海を吹く風が、自分を国まで運んでくれるだろう――チャムスに駐留する第八方面部隊の小隊長が、太郎たちを迎える訓示をたれている間、太郎はそんなことを考えた。「諸君らは……」、「天皇陛下が……」、「重要な戦略的拠点であるこのチャムスが……」、「満州国の恒久的な安定を……」。長々と言葉を続ける将校の演説は、この後の終わりそうのない平穏な日々を予兆するかのようだった。
 その日、この部隊についての説明が一通り済んだ後、新人兵士たちには新式の小銃が一丁ずつ手渡されることになっていた。将校がひとりひとりの名前を読み上げ、若い兵士が前に出て、重たい小銃を受け渡される儀式的な光景を目にしながら太郎は「自分がこんな立派な人殺しの道具を使う日がくるんだろうか」と思った。真新しい小銃を手にした新兵たちはみな顔を見合わせて、玩具を与えられたこどものような表情を浮かべている。しかし、太郎にはそんな彼らの気持ちはちっとも理解できなかった。不思議だったのは、いつまで経っても自分の名前が読み上げられないことだった。
 最後に太郎の名前が呼ばれたとき、彼に手渡されたのは小銃ではなく、一丁の古ぼけた拳銃と汚れた一冊の本だった――茶色くなった表紙に「八式無線機使用覚書」と書かれているのが辛うじて読めた。
 自分が置かれた状況を飲めこめずにいた太郎に、将校は「小笠原二等兵!貴様には明日から無線兵として働いてもらう」と力強く言った。