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 代々の生業であった養鶏業に従事していた小笠原太郎の下に赤紙が届いたのは、1935年3月15日、彼が18歳になったばかりのことだった。
 それからわずか一週間で、太郎が御庭町を出て東京に行くことが決まった。体格検査を経て(少しばかり体重が少なかったのが、検査員となった帝国陸軍専属医の眉をひそめさせる要因となったのだが)太郎は晴れて陸軍の一員として天皇に仕えることを認められたのである。
 御庭町一の好青年であり、美男子として知られた太郎の出立の日には、F駅に彼を慕う御庭町の人間が数多く集まり、彼を見送った。誰もが太郎の身を案じていた。
「生きて帰ってくなんしょよ!」
 車窓の外から呼びかける多くの人びとに向けて、彼はずっと微笑み続けた。その美しい笑顔は御庭町の人びとの心に焼きつき、彼に思いを寄せていた農家の娘たちの幾人もが、帰り道の途中で、太郎の仏のような表情を反芻し、涙した。当時は現代のように御庭町と市街地を結ぶバスもなく、見送りの人は行きも帰りも徒歩で山道を往復しなければならなかったから、暗く寂しい山道のなかを歩き続ける疲労のなかに差し込んだ太郎の表情はあまりにも優しすぎたのだ。
 しかし、東京の三鷹にあった陸軍訓練所の宿舎に着いて太郎が受け取った、故郷からの初めての知らせはとても悲しいものだった――77歳になる彼の祖母が、亡くなったのだ。それも彼を見送りに行ってから、たった3日後に。
 優しい太郎は、このことをひどく悔やんだ。祖母が死んだのは、自分が強く見送りに来てくれることを望み、祖母に無理をさせてしまったからだ、と彼は信じ込んでいた。訓練が始まり、1ヶ月が経っても彼は消灯時間になると、シラミだらけの布団にはいり天井に向かって「こだごどになるなら、ばあちゃんに見送りにきてくれなんかいわなきゃよかったんだ……」と一人ごちた。
 しかし、家が貧しく学校にも通わせてもらえなかった太郎にとって、支給された国民服を着て旅立つ姿は是非とも見てもらいたい自分の姿だった。麻布でできたほころびのあるその国民服は、きっと誰かの使い古しだったろう。しかし、それは彼にとって初めての制服であり、初めての晴れの舞台だったのである(そして祖母に見送りをせがんだのは、太郎の初めてのわがままだった)。
 訓練所には全国からさまざまな若者が集まっていた。しかし、傷心の太郎は「中国人も亜米利加野郎もまとめて突っ殺してやる」などと息巻く男たちにまったく馴染めないでいた。(あまりの優男ぶりに上官の誰もが太郎に期待していなかったにも関わらず)厳しい訓練はなんとかこなしていたし、素直な性格が幸いして上官に横面を殴られることは周りの訓練兵と比べると少なかったにも関わらず、その環境はつらく感じされた。
 ある日、太郎は訓練所の周囲に張り巡らされた鉄条網を乗り越えて脱走し、御庭町に戻る夢を見た。「よっぐ帰ってきたなぁ」。夢の中で御庭町の人びとは彼をそういって迎え入れてくれた。彼の帰郷を喜んだのは、なにも人びとばかりではない。彼が面倒を見ていた36羽の鶏たちが狭い鳥小屋のなかで地震の前触れのときのような狂ったようにはばたいた――しかし、彼を夢の世界から現実の世界へと連れ出したのは、鶏の鳴き声ではなく、宿舎の起床時間を告げるラッパの高鳴りだった。
 太郎は脱走の夢を見たことを大いに恥じた。もし脱走などしたら、御庭町に憲兵がやってきて父や母、町の人に迷惑をかけるだろう。サーベルを突きつけられて尋問を受ける人を出てくるにちがいない。太郎に脱走など選べるはずがなかった。「俺はばあちゃんを殺しただけでなく、まだ町の人に迷惑かけるつもりなんだべか」。多くの若者たちの汗がしみこんできた布団を片付けながら、彼はそう言って自分を叱咤した。