市街地と御庭町をつなぐ道は、一本の曲がりくねった道だけで、館内は毎日、この国道399号を使って通勤をしていた。彼がまだ初めての給料も入らないうちに、長いローンを組んでスカイラインを買うことになったのは、この山道をスポーツタイプの車でぶっ飛ばしたら、さぞ気持ち良いだろうな、と想像したからだ。
 しかし、実際には館内が通勤時にそんな疾走感と快感を味わうことは稀だった。盆地の地形が生み出す特有の湿気は、夏の季節になると毎朝この道に濃い霧をたちこめさせる。日の出から3時間経っても決して晴れることのないこの霧は、館内の黒いスカイラインにライトをつけながら走行することを要求した。そうでなくては、まれにすれ違うことになる対向車が館内の車が来ていることに気がつかず、事故を起こす可能性があったからだ。それに、国道399号アスファルトはほとんど鈍いおろし金のように荒れきっていたせいで、スポーツタイプの車種が持った繊細な性能はまったくと言って良いほど生かされなかった。
 この道がこんな危険な道だったとは、館内がかつて御庭中学校の「名づけられぬこども」として生活していたころには気がつかなかったことだった。
 最近になって館内は、かつてこの町で生活していたときのことを思い出す。仕事で遅くなって帰るとき、自販機の明かりへと夏の虫のように――夏になれば実際にさまざまな虫がこの明かりへと群がるのだった。その虫の群れにはこの地方の固有種でオニワオオスズメと言う巨大な蛾も含まれている――集まった不良少年を見かけたり、校舎を取り囲むようにして生い茂るブナ林が放つ青い匂いを嗅いだりするたび、館内の脳裏には東京で暮らしていたころはまったく浮かんでこなかった記憶が蘇った。
 しかし、その記憶は思わず表情がほころんでしまうような「良い思い出」ではなかった。もともと内向的で、表に出たがらないこどもだった館内は、御庭ダム工事に従事する作業員が形成する不良のグループにも、もちろん御庭町に生まれたこどもたちにも馴染めず、孤独だった。ポツリと取り残されて、いつも元いた都会の空気を求めていたあの日々はこれまで記憶の触れられることの無い部分にひっそりとしまわれていたのだ。