黒のスカイラインGTRを降りて、僕を待っていたのは不気味なほどいつもと変わらない学校生活(教師生活)だった。職員室で変わったものといえば、いつもあの男性的な腕毛がたくましい、体育教師には相応しい腕をもった男がまとわりつくようにして立っていたはずの山之内先生の席には、白衣を着た美女の代わりに白い菊が生けられた花瓶が備わっていたことだけだった。きっと教頭が生けたんだろう。なにかと言えば、地元のお花教室に20年近く(花嫁修業として)通っていることが自慢の教頭だったのだから。
 すれ違う同僚もまるで山之内先生のこと、そして僕が見た光景については触れなかった。誰もが昨日の事件を知らないみたいに過ごし、その雰囲気に飲まれた僕も、ごく普通に昨日のヘッセのテキストの続きを一年生の生徒相手に読み上げることで一日の仕事が終わってしまった。ヘッセのテキスト。『車輪の下』。僕は、こんな文章を、この教室にいたときに読み上げてもらったことはなかった。教頭が誇らしげに名指しする「出て行くこども」も、職員室のすぐそばにある花壇に熱心に水をやりつづける「留まるこども」も、そして車から降りた見るなり「先生、なんか悪いことやったのか!昨日パトカーに乗せられてんの見たぞ!」という言葉をかけた粗野なあいつらも、誰もがこの文章を理解していなかったろう。
 僕が読み上げる言葉は、みんな宙にすうっと消えていく煙草の煙みたいなものだった。紙の上に印刷された意味ある言葉は、こどもたちの右の耳から入って、左の耳から抜けていき、まるで意味のない言葉として漂流する。デ・ミ・ア・ン――ある種の人にとっては青春の苦々しさを喚起させる固有名詞はこの環境では力なく果てていくばかりだった。正直言って、僕にもこれを読む意味なんかつかむことは到底できやしないのだ。
 僕を一晩中にらみつけていた刑事からの電話も鳴らないまま、校長が山之内先生が「不幸な事故で亡くなった」ということを生徒たちに告げるために開かれた全校集会で、一日が終わった。遅刻のお詫びと教頭の短い小言以外に僕を悩ませるものがなかったのは、とても幸福なことだ。
 誰もが山之内先生のことなんか忘れてしまっていればいいのに――下校時間に流れるドヴォルザークの穏やかな旋律は、僕にそんな淡い期待を抱かせた。