館内が勤める御庭中学は、F県内でも一番小さな部類に入る公立中学だった。全校生徒は100人ちょっとで、各学年には1クラスずつしかない。ちょうど各学年に30人ほどの生徒がいるという状態は、過疎化が進む地域の学校を絵に描いてあらわしたようだった。
 生徒たちの親の職業はほとんど三種類へと分類される。一番少ないのが、町役場に勤める公務員や市街地に職場をもつ会社員。この家庭に生まれたこどもは、F県の市街地に済むこどもたちとなんら変わらない教養と学習意欲を持っており、このなかから毎年県内の進学校へと進む生徒が何人か出ていた。進学校へと進んだ彼らは、県外の大学へと進み、御庭町へと戻ってくることは少ない。初めからそのことを分かっているような冷めた学校生活を送っているのがこの家庭に生まれたこどもたちの特徴だった。
 逆に一番多いのは、御庭町で代々農業に従事する家庭だ。そこに生まれたこどもたちは公務員・会社員家庭に生まれたこどもたちとはまるで正反対の性格を示していた。男子生徒は皆自衛隊員のような短髪で、制服の白いシャツからはいつもランニングシャツが透けて見え、女子生徒は母親に切ってもらったような洒落っ気のない髪型をしている。そして、男女ともに季節を問わず頬が真っ赤に染まっていた(それは、冬の間に山から吹いてくるひどく冷たい風のなか、家業を手伝わされるせいかもしれなかった)。彼らの大半は卒業後に、バスで1時間以上かかる場所にある農業高校に進学し、高校を卒業すると本格的に家業へと取り組んでいく。
 御庭中学の教員たちは慣習的に、公務員・会社員家庭のこどもたちを「出て行くこども」と呼び、農家に生まれたこどもたちを「留まるこども」と呼んだ。しかし、そのどちらにも所属していないこどもたちもいた。彼らの父親は、25年前から建設が続けられている、御庭ダム工事に従事する作業員たちだった。
 町の外部からやってきて、一時的に留まっているだけの親たちのもとに生まれたこどもたちを、教員たちはどう取り扱っていいか分からなかった。親とともに、全国津々浦々から流れてくるこどもたちには、いわゆる問題児が多く、彼らが起こす問題行動――夏になると町に3つしかない飲料の自動販売機の明かりの前でたむろし、冬になれば町の特産品であるりんごを盗んで食べる――も教員たちの悩みの種になった。