28

 馬車のなかには、男が1人。この客を御者は大通りから少し外れた暗がりの道で拾ったが、彼は危うくこの男を轢き倒してしまうところだった。ひどい吹雪のなかを走っていた馬車が止まると男は「イリヤ・ピョートルヴィチ・ヴィシネフスキーの館まで送ってくれ」と言い、御者が返事をする前に馬車のなかに乗り込んだきり、話しかけてもウンともスンとも言わない。身なりからして身分の高そうな男だったが、顔をすっぽりと白い仮面で覆っているのが御者には不気味だった。
「訳はお聞きしませんが、こんなひどい晩ですからね。お代は弾んでもらいますぜ」
 こうして、仮面の男を乗せた2頭牽きの辻馬車がイリヤ・ピョートルヴィチの住む館に向かって闇のなかを切るように走っていた。とにかくその晩はひどい寒さだった。御者が鞭を打つたびに2頭の馬はせっせと白い息を吐く。その湿った吐息はすぐさまに凍りつき、馬の鼻の周りに霜を形作った。猛烈な吹雪は彼の視界を遮り、御者は危うくヴィシネフスキーの館までいく道を誤りそうになった。ランプの火だけを頼りに仕事をするには心細すぎる夜だった。
 馬車が館へと着く頃には、吹雪の勢いは一層ひどくなっていた。仮面の男は御者に金貨を1枚渡し(それは多すぎる報酬だった。御者が信じられないという風に目をまるめたほどだ)、馬車が闇の中に消えて見えなくなるのを待ってから、館の扉を強く叩いて誰かが出てくるのを待った。
 館内に扉を叩かれる音が響き渡る。イリヤ・ピョートルヴィチが祖父から譲り受けたその館は、むしろ城という呼び名に相応しい。ピョートル1世の治世下の時代に建てられた豪奢な建物は、ヴィシネフスキー家の名声と権力を象徴したものだった。館の石造りの壁は、仮面の男が扉を叩く音を何度も反響させ、玄関から少し遠くにあった下男の部屋まで届く。
 扉の重い閂を外した下男は、少しだけ扉を開けて外を覗いた。そこで黒い外套を羽織った肩に降り積もった雪と、白い仮面だけが闇の中に浮かんでいるのを見た彼はとっさに黄泉の国から死んだ父親が蘇ってきたものだと錯覚してしまい、腰を抜かすほど驚いた。そして、火が灯された銀の燭台を絨毯の上に落としてしまったから大騒ぎ。アラベスク文様が細やかに刺繍された赤色の絨毯にその火はたちまち燃え移り、すんでのところで下男が踏み消したから良かったものの、あやうく小火を起こすところだった。
「なにごとかね……ピョートル・ニコラーエヴィチ」
 下男がほっと胸を撫で下ろした瞬間、その後ろから声をかけたのはイリヤ・ピョートルヴィチだった。下男がまるで気が違った百姓が一人で農民一揆を起こしたような声をあげたものだから、寝巻きのままで飛び起きてきたのだ。「だ、旦那さま、申し訳ございません」と下男は主人に詫び、半開きのままになった扉の向こうを震えながら指差した。イリヤ・ピョートルヴィチが下男の指し示す方向を見やると、そこには白い仮面の男が冷然と突っ立ったままである。
「おやおや、どなた様かな。あいにく今晩は仮面舞踏会の予定はございませんが……」
 異様な男の姿にイリヤ・ピョートルヴィチは一瞬驚いたが、すぐに冷静さを取り戻して言った――しかし、腰の後ろに回された燭台を持っていない方の右手では、先祖伝来の短剣がギュッと強く握られている。このところ、市民の中には革命だのを目論む不埒な輩がいるとかねてから耳にしていたイリヤ・ピョートルヴィチは、ひどい吹雪の晩に現れた素性の分からぬ男をテロリストの一味かと勘ぐった。不吉な色をした仮面の奥にある男の目に蝋燭の炎が映るのが見える。その目は、獲物へと狙いを定める狩人のようにイリヤ・ピョートルヴィチの顔を見据えているようだった。押し黙ったままの男にイリヤ・ピョートルヴィチは言った。
「不躾なお方だ。困りますな、何も言ってもらえないのであればこちらも応対のしようがありません。もしかして、何かお困りの方がおありですか?訳ありの急病人でも出ましたかね?」
 イリヤ・ピョートルヴィチは男に慇懃な言葉をかけた。それは相手に余裕を見せることで隙を覗かせない騎士の態度だった。そして彼の言葉に促されたのか、仮面の男は漸く顔へと手を伸ばし仮面を脱ぐ。すると現れた見覚えのある顔に今度はイリヤ・ピョートルヴィチが心底驚かされてしまい、言葉を失ったまま冷静さを保てないと言う様子になった。
「旦那さま、この方はどちら様でしょうか……」
 主人がそのように動揺しているのを下男は初めて見、思わず声をかけた。下男は仮面の男の顔に見覚えが無かったが、仮面の下にある男の顔が思ったほど恐ろしいものでなかったので(それまで下男は仮面の下に焼け爛れた肌や傷だらけの怪物染みた顔を想像していたのだった)、今では落ち着き「もし主人の身に何かが起ころうとするならば身を挺して守ろう」と強気な気分でいたのである。
「馬鹿者!」
 しかし、下男の言葉にイリヤ・ピョートルヴィチは普段は決して用いない品の悪い言葉で反応してしまう。
「このお方はな……ロシア皇帝、ニコライ閣下だぞ……!」
 これに下男はまた奇声を放って応えた――学がなく新聞を読めぬ出来ない下男は、自分の住む国を治める皇帝の顔写真も見たことがなかったのである。そして下男は、屋敷の細々とした雑用しかできない男がそのような位の人間に合間見える権利が与えられていないことに気が付き、動転したまま自分の部屋へと走って逃げてしまった。
 そして、広間には皇帝のイリヤ・ピョートルヴィチだけが残された。
「驚かせてすまなかったな。我が友、イリヤ・ピョートルヴィチ」
 皇帝が声を発したところで、自らが仕えている人物がまだ開け放たれた扉の前にたって、外から入ってくる吹雪に半ば身をうたれていることにイリヤ・ピョートルヴィチは気がついて、皇帝を屋敷のなかへと招き入れ、扉を閉めて再び閂をかけた。あまりの寒さのせいか、皇帝の顔は青白くなったまま生気がない。しかし、その表情には寒さを忘れさせるほどの深刻なものが隠されているようだ、とイリヤ・ピョートルヴィチは思った。皇帝は自らの肩に積もった雪を払うのも忘れているのだ。それをイリヤ・ピョートルヴィチは慣れない手つきで落としてやった。
「我が友、イリヤ・ピョートルヴィチ。私を助けて欲しいのだ……」
 応接室へと通された皇帝はまずそう言った。言葉の調子は重く、まるでモーツァルトの歌劇に登場する殺されて石像になって蘇る騎士団長がのような様子に、イリヤ・ピョートルヴィチは何事が起きたのだろうと事態をうまく飲み込めない。暖を用意させようと人を呼ぼうとするのさえ止めたのには、特別重大な理由があったのだろう。
「どうしたのです……閣下」
 イリヤ・ピョートルヴィチは皇帝の顔をじっと見つめながら訊ねた。
「あの男を……グリゴリー・エフィモヴィチから私を救ってくれ……」
 皇帝は答えた。
「このままではこの国は、あの狂った僧侶に食い尽くされてしまう……」
 皇帝の口から白い息が漏れた。その表情はもはや以前に見知っていた威厳のある皇帝の顔つきではなく、危篤の病人が死ぬ前に見せる顔のように見える。
「まず話をお聞かせください」
 イリヤ・ピョートルヴィチは依然として寝巻き姿のままだったが、もはや部屋の寒さを忘れてしまっていた。何かが始まろうとしているのだ。不吉な予感が今は彼の肌の感覚を麻痺させていた。

27

「打ち合わせの時間が延びちゃってね、新幹線に乗るのが遅れてしまったんだ」
 テーブルに近づいてきた男は、そう言って刑事と僕に詫びた。歳は30歳をちょっと過ぎたぐらいだろうか。もしかしたらもう少しいっているのかもしれない。無駄な肉のついていない頬骨とガッチリした肩幅は、いかにも「ジムに行って鍛えています」という感じで流行に敏感な都会の男(しかも給料が良い会社に勤めてるタイプの)を思わせ、それは男の年齢を余計に推測しにくくしている――「どこで見た顔なのだろう?」と僕は思った。少なくとも僕の周りにはいないタイプの人間だった。
「こちらは、牧田大輔さん。ご存知ありませんか?最近よくテレビとか雑誌に出てるの見たことありません?」
 刑事はそう言って男を僕に紹介した。その名前はやはりどこかで聞いたことがある。たしか大学を卒業してすぐにIT系のベンチャー企業を立ち上げて、10年ほどで板橋にあった小さなマンションの一室から六本木にある新しい高層ビルへとオフィスを移すぐらい会社を大きくしたとかいう典型的な「成功者」のひとりとして何かで紹介されていたのを読んだことがあった気がした。「はじめまして」と言って、牧田が僕に差し出した名刺は強烈に「デザインされたもの」という印象を与えるもので――バウハウス?とにかくそういったモダニズムのデザイナーの意匠を継承した人に、少なくないお金を払って作らせたものだろう――僕は自分の県職員用の名刺を出すのが少し恥ずかしく感じてしまった。手首からは柑橘系の香水の匂い。これだってきっと何某かの高級ブランドのものなのだろう。 
 彼が席に座るとすぐに、店員が中ジョッキを2杯運んでくる。牧田のことを珍しい動物でも眺めるような目で見る店員には、男性用ファッション誌からそのまま出てきたような姿が珍しかったのだろう。というよりも「男性用ファッション誌からそのまま出てきたような男」という概念そのものが欠如している感じだった。東京の流行とこの街のそれではまるでモノが違うのだ。仏壇の前に置かれた厚みのある座布団のような模様のネクタイを締めたサラリーマンが平然と街を歩いているのに慣れてしまえる状況では、牧田のような格好が奇異に見えてしまうのは当然だったのかもしれない。
「仕事のあとの冷えたビールはどこで飲んでも美味しいものだね。グリーン車のなかで買ったビールがヌルくて不満だったんだ」
 運ばれてきたビールを口にしながら牧田はそう言ったあと、こちらに向かってニッコリと笑って見せた。訓練された笑顔。きっとビジネスを円滑に進めるためにそういう表情を作るレッスンを受けたりしたのだろう。話し方、身のこなしと言った他人に受け取られるものすべてが洗練されている。そういった印象が徐々に強まっていくにつれて、牧田の存在の不思議さは僕のなかで強まっていく。なぜ、東京に有名なIT企業の社長がこんなところに?――山之内先生の事件との関連もまったく見えてこなかった。
「なんで牧田さんがここにいるのかって顔してますね」
 僕が尋ねようとする前に刑事は話し始めた。
「牧田さんの地元がこちらなんですよ。お父さんのこと、知らないですか?こっちだと結構有名なんですけどねえ。ほら、県議会議員の牧田大蔵先生。街中にポスター貼ってあるでしょ」
「やめてくださいよ、小山さん。親父のことはあんまり言わないようにしてるんだから。会社作ったときのお金、全部出してもらったなんてカッコ悪いでしょ?」
 牧田はそう言って同意を求めるように僕のほうを見た――地元がこっちだって?まさか単に里帰りに来たわけじゃないだろう。お盆にはまだ少し早すぎる。
「まだピンと来てないって感じですね。そうでしょうね。じゃあ、僕のほうから話します。東京の成り上がり企業みたいな会社の社長の僕がどうしてここにいるのか?それから事件と僕とで関係があるのか?先生――いや、館内さんが不思議に思っているのはざっとこんなところでしょう?」
 牧田の言葉に僕は黙って頷くと、牧田はジョッキに残っていたビールを一気に飲み干して話を続けた。
「まず、少し背景的なところから話します。
 実は最近、親父――さっき話に出た県議会議員の牧田大蔵です――が『東京でいつまでも訳の分からない会社やってないで、早く政治の世界に入ってきたらどうだ』ってうるさいんですよ。まあ、親父ももう随分歳だ。とっくに還暦も過ぎてるし、僕に自分の地盤を引き継がせたいのは分かる。政治家としてはまだまだ現役でいれる歳なんでしょうが、昔無茶をし過ぎたんでしょう、早く引退したがってるみたいなんです。僕には、上に6人の姉がいるんですが――まるで戦時中みたいでしょう?――男は僕だけだ。引き継げるのは僕しかいない。
 それで僕の『やる気』の話になる。意外かと思われるかもしれませんが、僕のほうでもそんな話が来てまんざらでもないっていう感じなんですよね。会社は大きく出来るところまで大きくしてしまった感じもある。それに会社をはじめてから2年ぐらいは親父にはいろいろと助けてもらった。このへんで親孝行しておくかっていう気持ちもある。
 親父はね、『お前ぐらいの知名度があれば、後は俺がなんとかする。大丈夫だ』って言うんですよ。まずは県議会議員選挙に立候補しろ、出れば勝てる。一回任期を勤めたら、次は国会だって目指せる、ってね。
 ただ、僕はそうは思わない。ほら、田舎の人間ってどこか頭が固いところがあるでしょう?ライバルになる候補者だってみんな僕と同じ、2世、3世議員みたいなものなのに新参者にはえらく冷たいところがある。ましてや僕なんか歳もまだ若いし、ITなんていう海のものとも山のものともしれない会社の社長だ。落ちる可能性だって充分にありうる。
 問題はそれだけじゃない。小笠原仁海。こいつの存在が一番気になるんですよ――僕の親父と小笠原仁海はお互い敵対的な勢力に属している。親父は気持ちだけは良い勝負をしているつもりでいるけれど、実際のところ、F県を裏で牛耳っているのはほとんど小笠原仁海です。小笹町に農業用の空港を作ったのも、御庭街のダム建設も大きな事業はすべて小笠原が決めたと言っても過言じゃない。
 そんな敵がいるのに、おいそれと東京の会社をやめて議員に立候補なんかできますか?僕はリスクをできるだけ小さくして、それから可能な限り大きなリターンを求めるタイプの人間だ。今回も今までどおりそういう風にしたいと思っている。
 そこで今回の事件が起きた――F県の中学校で起きた極めて奇怪な殺人事件。それを小笠原仁海が隠蔽している」
「それを掘り返してスキャンダルを巻き起こし、小笠原仁海に引導を渡す。すると自分は安心して選挙に出れる」
 僕が口を挟むと、牧田はマネキンのような笑顔を返す。その表情はまるでテストで良い点を取った生徒を褒める先生みたいだった。本職の僕よりずっと生徒の成績が伸びてくれるような完璧な笑顔だ。
「そのとおり。さすがは先生だ、話が早い。もうご承知でしょうが、僕は実際的に言えば事件とはなんの関わりもない。ただ、興味がある、というか利用したいだけです。これは僕にとって大きなビジネス・チャンスみたいなものなんですよ。だから今日は館内さんが『あまり協力的ではない』と小山さんに聞いたものだから、直接交渉に来たわけなんです。正直に言いましょう、あなたは僕にとって重要なキー・パーソンなんです。ね、小山さん?」
 今度は刑事に向かって笑顔――それを受けて刑事は、自分がなにか手柄をあげたみたいに自慢げな表情を浮かべた。これですべては繋がった。刑事が必死で僕に協力を訴えるのは、うさんくさい正義のためなんかじゃない。すべてはこの男に協力したときに得られる報酬が目当てだったのだ。まったく、呆れてしまう。
「残念ですけれど、やっぱり僕には関係がないことです。協力はできません」
 僕がそう言って席を立とうとしたところを、牧田の声が掴まえる。
「館内さん、もう少しだけ僕の話を聞いてください。あなたにも関係があることなんだ――腹を立てていらっしゃるのもなんとなく想像できる。あなたにだって自分の生活や仕事がある。目撃者だってだけでこんなことは普通は頼んでも引き受けられない。小山さんの態度も不快でしょうしね。しかし、あなただって気になるでしょう。一体自分の何が事件と関係しているのか」
 図星を突かれた気分だった。確かに僕はそのために仕事のあとに、わざわざこんな店に出向いたのだ。
「1時間、いや、あと30分で話が終わるなら聞きましょう」
 僕がほとんど負け惜しみのようにそう言ったところで、牧田はまた笑顔を見せる。
「良いでしょう。ただ、10分だけ休憩させてください。僕も来ていきなり話し続けるのはちょっとキツい。それにお腹も減ってるんだ。ね?10分」
 僕はもう何も言わなかった。それを牧田は同意と受け取ったのだろう。
「小山さん、この店、なにか食べ物置いてないの?」
「あ、ピザぐらいならありますよ。冷凍ですけど結構イケます。近くのパン屋に作らせてるんですよ」
「じゃあ、それで」
 ふたりが注文を決めている間に、僕は天井にあった場違いすぎるシャンデリアをずっと眺めていた――なぜ、シャンデリアなのだろう?なにもかもが食い違っている――不思議なことにそこで自分も空腹だったことに気がついた。そう言えば、昼から給食の残りのパンぐらいしか食べていなかったのだ。テーブルのうえに目を戻すと、ほとんど手付かずで少しぬるくなった僕の分の中ジョッキがある。それでなんとか誤魔化すしかない。
 しばらくすると店の奥からチーズが焼ける匂いが漂い始めた。
「あと5分です。少し心の準備をしておいたほうが良いかもしれません。ちょっと館内さんにとってショックなことも話しに出てくるかもしれないから」
 と牧田が自分の腕時計を見やりながら言うと、店内にはまた異様な静寂が訪れる。空調のモーター音と厨房から聞こえる食器のぶつかる音以外には何も音を立てるものがない。腕時計のムーヴメントが放つ微小な音さえも聴き取れそうだった。

26

 この土地じゃ、病院ですらも砂っぽく、埃っぽい。こんなの俺の田舎でさえも信じられないことだ。くそったれ。廊下はまるで20年も掃除をしていない古ぼけた屋敷みたいに歩くとジャリジャリと音を立てるんだ。クソッタレイラク人のジジイが、モップをもってし切りに床を拭いているんだが、見ていて哀れになるぐらい何の意味も無い行為に思えちまう。自動ドアが開くたびにロビーに砂が吹き込んでくるんだからな。
 ふたたび、俺がその砂だらけの廊下を通ってジェネシスを見舞いに行ったのは、あの馬鹿げた神様の話を聞いてから1週間してのことだ――まったく本当にふざけているとしか思えない。ジェイムス・ブラウンが神様だってよ。たしかにヤツはゴッドファーザーだったかもしれないが、片手じゃ足りない逮捕歴を持った男が神様になれる天国なんか、フランク・ザッパが大統領になれるアメリカみたいなものじゃないか。一体、やつはどうしちまったんだ?


「おう、やっぱりお前か」
 俺は病室のドアをあけると、ジェネシスは開口一番にそう言った。足にはまだギブスがついたままだったが、ヤツは随分元気になっているように見えた――少なくとも白いシーツが敷かれたベッドの上で『ペントハウス』を読むぐらいには。
「やっぱり?どういうことだよ」
 と俺は言った。
「ああ、なんだかお前が来るような予感がしたんだよ。予感、というのは正確じゃないかもな。誰かが教えてくれるような感じがするんだ。『病室に誰が来るか』とか『明日の天気』とかをよ」
「もしかして、JBがか?」
 と俺は尋ねた。またおかしなことを言い出してるぜ、この野郎、と思いながらだ。だが、俺はヤツを馬鹿にしたような調子を言葉には含ませなかった――だって、可哀想だろう?ヤツは俺の仲間だったし、ホントに頭がおかしくなってたかもしれないんだからよ。
「そうかもしれないな」
 参ったね、と俺は呆れそうになった。しかし、そう言ったジェネシスの表情は、いつになく複雑な感じだ。というか、俺はヤツのあんな顔を見たのは初めてだったかもしれないね。大体、俺はそのときまで黒人ってヤツがそういう顔ができる人間だって思ってなかったんだ――ヤツらはいつだって、怒ってるか、笑ってるか、イイ気持ちなってるか、その3パターンの顔しか見せないもんだと思ってた。


「お前のほかに、何人も見舞いに来てくれたよ。キースも、アルバートも、ブライアンも。それに、ほら、アイツ、俺たちと一緒にあの夜、夜警に出てたヤツもさ。俺は来てくれたヤツみんなに例のJBの話をしたんだ。ヤツらの反応はどんなだったと思う?」
 ヤツは今にも泣き出しそうな、そんな調子だった。まるで夏の田舎道で、夕立が来るかこないか図りかねる空模様みたいな感じだ。分かるかい?さっきまで、コンバーチブルのルーフを開けっ放しにしてぶっ飛ばしてるときに、地平線の向こうから黒っぽい雲が浮かんだときの不安な気持ちを。俺はヤツの口からどんな言葉が出てくるか、ずっと不安な気持ちだった。誰だって自分の仲間が狂った証拠を掴んだりなんかしたくないさ。
「ヤツらは、誰も俺の話をマトモには聞いてくれなかった。アルバートなんか、最後まで聞き通しさえせずに病室を出て行っちまったよ。ゲラゲラ腹を抱えて笑いながら看護婦と一緒に戻ってきて『コイツ、頭が狂っちまったみたいなんですよ!熱い注射でも一本打ってやってくれねえかな、看護婦さん』なんて言うんだぜ。誰もが俺を狂人扱いした。誰も信じてくれないんだ。だけどよ、俺はハッキリと聴いたんだ、死ぬか死なないかって間際にJBの『SEX MACHINE』を!お前だけ。お前だけだよ、俺をバカにせずこうして2度も見舞いに来てくれるのはよ!」


「おい、落ち着けよ」
 と俺は言った。しかし、俺にはジェネシスを侮辱したヤツらの気持ちが痛いほど分かった。そして、次にとても悲しい気持ちになったんだ――ジェネシスは、マジでおかしくなっちまったんだ。ジェネシスは人からおちょくられやすいタイプのヤツだったが、決して悪いヤツじゃなかった。ヤツの陽気さはうんざりする戦場での、数少ない楽しみだったんだ。しかし、もうヤツは戻ってこない。戦友だったジェネシスは、月の裏側に行っちまった。今目の前にいるは、かつてのヤツの抜け殻みたいなものだ。
 ジェネシスの狂気を確信すると俺まで泣きたい気持ちになった。最初に聞かされたときよりずっとひどい。こんなにまで自分の見た幻覚に囚われているなんて。
「昔話したかもしれないけどよ、俺の兄貴ってさ、優秀な人間なんだ。俺と違ってよ。高校のときからクソ田舎で『TIME』だの『NYタイムズ』だの読んでるようなインテリだったんだ。兄貴は大学で哲学を勉強していたらしい。と言っても俺には兄貴が何を勉強していたか、さっぱり理解できなかったけどさ。『早く勉強なんか辞めて田舎に金でも送ってくれれば良いのに』と思ってた。
 そんな兄貴が、こんな話をしてくれたことがある。
『人間は、自分の世界しか見ることができない。他人の世界を見ることはできない。人間が他人を本質的に理解できないのは、それが理由なんだ。分かるか?もし、俺がお前のことを本当に理解できたというのであれば、俺はお前の世界を見ているということになる。つまり、俺とお前は他人じゃなくなってしまう。だが、そんなことは実際には不可能だろう?だから、俺はお前のことを理解できないし、お前は俺のことを理解できない』
 これはヨーロッパのなんとかっていう偉い学者の考えだそうだ――誰だか名前は忘れちまったが、そいつはゲイだったらしい。まったく、そんなことばかり覚えてるんだな、俺は。しかし、俺はそれを聞いて『なるほど』と思ったんだよな。モーガンがアナルでさせてくれないのも、そいつが理由なのかってな。
 つまり、どういうことか分かるか?キースもアルバートもブライアンも、お前の世界を見ていない。いや、見ることはできないんだ。だから、お前は理解されなくても当たり前なんだよ」
 俺は、子供を扱うみたいにしてジェネシスに言い聞かせた。ヤツにこんな話をしても無駄な相手に変っちまったかもしれないのに一生懸命だった。
「お前ってホント良いヤツだな」。
 しばらくして、ポツリとジェネシスは言った。それを聞いて、俺はますます泣きたい気持ちになっちまった。
 とにかく、3度目の見舞いはこんな感じだった。できれば次には見舞いに行きたくない。そんな気持ちに俺はなっていた。


 俺がヤツの病室から出ようとしたとき、ヤツは言った。
「医者が言うにはよ、もうすぐ退院できるらしいんだよな。もちろん、ギブスは外せないけどよ。で、軍の偉い人は退院したら国に戻っても良いって言ってるらしい」
「おお、そりゃ良かったな」
 と俺は言った。
「でもよ、俺、国に戻る前に一度日本に行ってみようかと思ってるんだ。お前、どう思う?ここから船で帰るにしても飛行機で帰るにしても一度ヨコスカに止まるだろ?そのとき、ちょっと陸に下りられるだろ?」
「良いんじゃないか?良い気分転換になるだろ」
 俺はもうどうでも良い気持ちになっていた。とにかく、そのときは早く病室から出たかったんだ。何を言い出すかわからないヤツと一緒にいるだけで俺は疲れきっていたんだな
「行かなきゃいけない。そんな気がするんだよな……」
 病室のドアを閉めるとき、ドアの隙間からヤツが東を向いた窓をじっと眺めているのが見えた。時間はもう夕方になっていた。窓のカーテンは閉まったままで、空中を舞った砂の影響なのか、赤紫に不気味に染まった空の光が白い布をサイケデリックなクラブのように染めている。ヤツが何を考えながら、それを眺めていたのかは分からなかった。


 それから俺がジェネシスを尋ねていくことはなかった。俺がその後にヤツの消息を知ったのは今日届いたヤツからの手紙でだ。

25

 チャムスに冬がやってくると、さすがの太郎も部屋でじっとしているだけの仕事をつらく思うようになった。大陸の乾いた空気は、肌に刺さるように冷たく、寝ている間に鼻の粘膜部分が切れて出血し、汗や垢で薄汚れた枕カバーに赤い斑点を作ることがよく起こった。もちろん、染みを作ってしまえば上官からきつくしかられてしまう。賢い隊員たちは寝る前にあらかじめ鼻の穴に小さくちぎった綿を詰めて、二段ベッドに入っていた――そうしなければ、万が一寝ている間に鼻血が出てしまった場合には、起床とともにチャムスの町の中心部に備え付けられた井戸まで駆け、上官の点呼の前に冷たい水でカバーを洗わなくてはいけないはめになる。井戸の水に触れると針が突き刺さるような痛みが指先に走り、朝食で箸がうまく扱えないほどに悴んだ指先の感覚が戻ってくるのには日が昇りきるぐらいまでの時間がかかる。
 太郎が篭りつづける通信室には暖房器具が用意されていなかった――もっとも、この町でそのような設備が備え付けられていたのは陰で「無能」呼ばわりされている将校の寝室だけだったのだが。吐く息は室内でも煙のように白く、外套をまといながら太郎は本隊からの通信を待った。そうでもしなければ、すぐにでも肺を病むような温度だった。窓に張り付いた氷は日中になっても融けることがなく、弱く短い太陽の光を一層弱くするおかげで部屋はいつでも明け方のように薄暗かった。雪が降って窓ガラスが完全に塞がれてしまえば、まるで夜のようにもなりランプが必要になってしまう。
 次第に太郎の意識は現実から離れていった。なにしろ、意識を現実へとつなぎとめておくものは何一つ存在しなかったのだ。太郎の意識は、通信室から自由に遠ざかって行く。そこで太郎は、いつも白昼夢のような映像を観た。それは通信室で受信信号を放つことがない機械と向き合うよりもずっと現実感を強くもった不思議なものだった。
 あるとき、太郎は自分が御庭町の空を飛ぶ一羽の鳶になっていることに気がついた。鳶になった太郎の視力は、人間であるときのそれより優れており、空中を円を描くようにして飛び回る間に彼は町で起こっていることがなんでも認めることができた。御庭町にも雪は積もっている。太郎は、美しい絹布の上に蟻が這っているのを眺めるような気持ちで、町の人びとを見た。あれは、猛夫さんではないだろうか。こんなに雪が積もっているのに、畑に出かけるなんていつもながら殊勝なことだな。うちの親父は何をしているのだろうか。
 町には自分と同じ年頃の若い男はひとりもいなかった。皆、自分と同じように戦場に行ってしまったのだろう。
 そう思った瞬間に、太郎の意識はまた別の世界へと飛んだ。視界には煤けた色をした木製の扉が入った。これは通信室の扉じゃないか、と太郎は気がついた。さきほど鳶になっていたときのように、自分の意思で視界を動かすことはできなかった。太郎の意識とは無関係に視界は動いている。毛深く節だった男の手がドアノブにかけられ、扉が開かれるのが見える。部屋のなかには、目を瞑って椅子に座る太郎の姿がある。
「貴様!居眠りをしておったな!!」
 怒号によって、太郎の意識は太郎の肉体へと戻った。太郎が驚き、椅子から立ちあがって声のする方向を向くとそこには自分を睨み付ける沢登の姿がある。その表情は冷静だったが、その冷たい表面の奥には激しい怒りが燃えるようにしてあるのが読み取れた。強い恐怖に襲われた太郎は声が出ず、歩み寄ってきた沢登が、罵倒とともに2発、3発と殴りつけるのを黙って耐えた。「このド田舎出のクソガキが」。「俺がせっかく楽な仕事につかせてやったのに、居眠りなんぞしやがって」。「恩知らずめ」。沢登の声が聞こえるたびに、太郎の顔には激しい痛みが走った。その痛みは久しぶりに味わう現実の感覚だった。白昼夢のような幻影が見せる現実感よりも深刻な、鋭い痛み。
 7発目に加えられた裸の拳が与えた痛みは、太郎の意識を再び遠のかせていく。今度は幻影をみない。訪れた深い闇が太郎の意識を掴んでいる。

24

 「腹立たしいったらありゃしない!」と言いながら、イリヤ・ピョートルヴィチ・ヴィシネフスキーの妻、ガリーナ・イワノフヴナは夫が皇帝に呼び出されるの待ち続ける宮廷の一室に怒鳴り込むようにして入ってくる。フランス貴族風に仕立てられた彼女の長いスカートを、自分で踏みつけてしまいそうな勢いに夫、イリヤ・ピョートルヴィチは驚きを隠せなかった。「どうしたんだ?」とイリヤ・ピョートルヴィチは妻に向かって穏やかに尋ねる。彼女のあとに続いて部屋に入ってきた従者たちは、皆、バツの悪そうな表情を浮かべてイリヤ・ピョートルヴィチの目を見ようとした。
「なにもかにも、あのラスプーチンとか言う坊主が悪いんですわ!」
 そう言ってガリーナ・イワノフヴナは尚も甲高い声を上げた。その声は、イリヤ・ピョートルヴィチに、モーツァルトの書いた傑作オペラ《魔笛》における夜の女王を思い起こさせる。たしかに彼女はかつて、元々ペテルブルク歌劇場の花形ともいえるソプラノ歌手だったのだが、その美声は今ではイリヤ・ピョートルヴィチの鼓膜を煩わしく振るわせる単なる高い声に過ぎなかった。
「あの怪しい男、このままでは何をしでかすかわかりませんわ!」
 ガリーナ・イワノフヴナは続ける。
「ちょうど、昨日でしたわ。そう昨日はアナタがちょうどお祖父から頂いたカルテ用の万年筆を居間に置き忘れたんでしたんでしたわね。それをあなたに届けようと思って、宮廷まで来たんですのよ。そうしたら、あの忌々しいグリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンと偶然出会いましてね。あの男、こう言いますのよ。
 『あら。これはこれは。皇帝の寵愛を受ける宮廷医、イリヤ・ピョートル・ヴィチ・ヴィシネフスキーの奥様、ガリーナ・イワノフヴナ様ではございませんか。ごきげんうるわしゅう』。
 こんな風に声をかけられ、私も立ち止まって会釈ぐらいはしましたが、特に言うこともありませんから、そのまま通り過ぎようとしましたの、これまでグリゴリー・エフィモヴィチなどという男とはほとんど言葉を交わしたことなどないんですもの。すると、あの汚らしい男は私のお腹に突然手をかけまして……その……とても厭らしく私のお腹を撫で回すんですの――もちろん私はすぐさま『何をするんです!恥を知りなさい!!』と言いました。
 するとあの忌々しい坊主め、薄気味悪く笑いながらこう言ったんですのよ。
 『なに、奥様、心配することはございません、へっへっ!こう見えても、あっしは地元じゃあ、アッシジの聖フランチェスコの生まれ変わりなんて呼ばれておりました。こうしてあっしが貴婦人のお腹を撫でさすりますと、あら不思議、その貴婦人という貴婦人は子宝に恵まれてですね!もう、それはそれは大変なご盛況でございました!』
 アッシジの聖フランチェスコですって!まったく、馬鹿げていますわ!本当にかの聖人の生まれ代わりだというならば、あのパーティーで、さも美味そうに鳥の丸焼きをかぶりつく姿はなんだったのと言いますの?!」


 グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンに反感を抱くのは、妻、ガリーナ・イワノフヴナだけではないことをイリヤ・ピョートルヴィチは理解していた。実際、グリゴリー・エフィモヴィチが宮廷に姿を現してはじめてからというもの、イリヤ・ピョートルヴィチを巡る環境は激変していたのだ。現代医学ではどうにもならない問題、ヴィシネフスキー一族全体の問題として考えられていたアレクセイ皇太子が患う不治の病。これが事の発端だった。
 夜になればアレクセイ皇太子は発作を起こし、「イリヤイリヤ!」と苦しみ紛れに喚く。すると、イリヤ・ピョートルヴィチは毎晩、飛ぶようにしてアレクセイ皇太子へと特別に誂えられた、イリヤ・ピョートルヴィチが待つ医療室と隣り合わせとなる部屋へと向かわねばならない。しかし、その夜もおちおちと寝ていられぬ日々は、グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンの登場によって終わる。
 宮廷には3ヶ月に一度、極東から珍しい陶磁器や美術品の類を運んでくる商人いた。己を「アッシジの聖フランチェスコの生まれ変わり」と呼ぶ汚らしい身なりの祈祷師は、そのシベリア出身の商人へと連れられて、初めてペテルブルクの大理石造りの床へと足を踏み入れた。商人は自分の後ろに、何年も洗っていないような法衣を着た汚臭のする男を跪かせ、皇帝に対して鮮やかに彩られた清の焼き物を差し出してこう言う。
「皇帝閣下!この者、なんと『アッシジの聖フランチェスコ』の生まれ変わりと称される男であります。閣下がご存知の通り、聖フランチェスコと言えば医療を司る聖人でもありますな。私も何度もこの男が起こす奇跡を目撃しております。この男はホンモノでありますよ。脚萎えの乞食の前で祈り、通風病みの職人の前で祈り……すると、たちどころに病んでいた部分が消え去ってしまうのです。近頃、ペテルブルク界隈で評判の男です――さて、どうでしょう。この者に一度アレクセイ皇太子殿下を見てもらっては……」
 話を聞いた皇帝は、厳しい目で商人を見つめ、しばらく考えてから従者に向かって「その者を、アレクセイの元へ連れて行きなさい」と言った。もし商人の話が嘘だったとしたら、ふたりまとめて銃殺刑にでもかけてしまえば良い。罪状は侮辱罪でもなんでも良いだろう。皇帝は、今までに何度も祈祷師と名乗る男が目の前に現れたことを思い返す。どの男も皆ニセモノだった――皇帝の失望の度、彼らニセモノの祈祷師たちの血が流された。しかし、ヴィシネフスキーの一族でさえどうにもすることができないアレクセイ皇太子の病はもはや奇跡にでも頼るほか無かったのだ。だから、ニセモノの祈祷師たちの流血は止まらなかった。
 玉座に座る皇帝は従者からの報告を待った。しばらくするとドアが開き、先ほど部屋を出て行った従者が戻ってきた。従者の表情は、あきらかにいつもとは違う。皇帝も自分の目が信じられないでいた――何しろ、ここ何週間もベッドから置き出すことができなかったはずの息子が、従者に手をひかれて自分の元へとやってきたのだから。
 「閣下……信じられません」と従者は涙さえ浮かべながら報告をする。
「あの男、皇太子殿下のベッドがあるお部屋に行きますと、すぐにはベッドに近寄らずに、胸元から十字架を取り出しましてそれで何度も空中を切るようなしぐさをしました。それから『あなたには見えますまいが、こうして悪霊を退治しているのですよ。なにしろ、皇帝閣下の一族というものは業の深い方々でありますからなあ』などと申しておりました。 そして部屋中に聖水を振りまきながら、殿下が眠るベッドへと近づいていったのです。あの男は殿下の額に手を置きながら、なにやらまじないごとのような言葉をずっと呟いておりました――不思議だったのは、そのときから急に部屋が暖かくなったように感じられたことです。まるで、火の消えかかった暖炉に油を注いだような、そういう空気に包まれたような感じでした。
 あの男は、ひとしきりまじないの言葉を言い終えると、殿下の額から手を離し、握りこぶしを作った右腕をゆっくりと天井に向けて伸ばしていきました。そして、大きな声で『目覚めよ!』と叫んだのです。部屋は静まり返りました。殿下はまだすやすやと眠っておられました。『この男も単なるインチキ祈祷師だったのか……』と失望しかけた、そのときです。殿下が目を覚まされたのです。
 殿下は目の前に立ったあの男を不思議そうに眺めながら『急に具合が良くなった』と一言おっしゃいました。それからご自分でベッドからお起きになったのでございます。昨日まで全く起き上がれなかった殿下がでございますよ!――長年、閣下の下にお仕えしてまいりましたが、私、あのような奇跡を見たのは初めてでございます。閣下、あの男はホンモノです」
 報告が終わると、皇帝は玉座から立ち上がり、震える手で我が子、アレクセイ皇太子を抱きしめる。その姿に、従者は涙を堪え切れずに大きな声を出して泣いた。その場で、ほっと安堵の息をついたのはシベリア出身の商人であり(実際のところ、彼はそれまでグリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンのことを半分疑っていたのだ)、頭の中では既にこの男を皇帝に紹介したことでももらえる褒賞の計算が始まっていた。
 「して、あの男はどこに?」と皇帝は従者のほうへ振り向きながら言う。「ハッ。部屋の前で、待たせております」と涙を拭いながら従者が答えるのを聞くと、皇帝はすぐさま新しい法衣をグリゴリー・エフィモヴィチに与えよと言い、それから盛大な晩餐の支度を命じた。また、商人にはロマノフ金貨を30枚を。それから清められたワインと花火の準備を。
 その夜、皇帝は真新しい法衣を着たグリゴリー・エフィモヴィチの手を硬く握り「貴殿はロマノフ王朝の友だ!」とまで言った。皇后、アレクサンドラ・フョードロヴナもグリゴリー・エフィモヴィチを優しい抱擁で迎える。晩餐の間、アレクサンドラ・フョードロヴナの目はずっとシベリアの農村からきたというこの得体の知れない祈祷師の姿を追い続けている。ダルムシュタット公国からロマノフ王朝へと嫁ぎ、農村の人間はおろか市政の人々ですらまともに見たことが無かったアレクサンドラ・フョードロヴナの目には、手を汚しながら料理に貪りつく野蛮な男の姿は珍しい生き物のように映る。かつてフランスを旅したときに観た、動物園の檻の中にいた白い虎のことを彼女は思い出す。夫である皇帝や宮廷で会うことのできる男たちとはまったく違った魅力をその野蛮な男に感じているのに自ら気がついたアレクサンドラ・フョードロヴナは一瞬顔を赤らめ、それから水で薄めた赤ワインを飲んで心を落ち着かせた。


 このようにして見事に皇帝の信頼を勝ち取ったグリゴリー・エフィモヴィチは、アレクセイ皇太子の命を救った奇跡の人物、「神の人」、「アッシジの聖フランチェスコの生まれ変わり」として宮廷内で特殊な権力を持つようになる。しかし、グリゴリー・エフィモヴィチに対する皇帝のはからないは、誰しもが納得できるようなものではない。特に、それまで皇帝に仕えてきた優秀な役人たちは、グリゴリー・エフィモヴィチが政治にまで口を出そうとするのには我慢がならなかった――ある日、皇帝から税務を任されていた役人、アレクセイ・コンスタンチノヴィッチは、グリゴリー・エフィモヴィチが皇帝に豚の頭蓋骨を見せびらかし「閣下、これからあっしがこの豚の骨でもって、商人から取る事業税を占ってしんぜましょう。これは古くはドルイド僧にも伝わっていた伝統的な方法でしてなよく当たるのですぞ。かつての東ローマ帝国でも採用されていた方法だとも言います……」などと囁くのを聞いた。皇帝がそれをみて「ほう、やってみせてくれ、我が友」とまんざらでもないというような言葉を返すのが、アレクセイ・コンスタンチノヴィッチは信じられない。役人たちの不信と不満は徐々に高まっていった。
 グリゴリー・エフィモヴィチにまつわる破廉恥な噂も宮廷では飛び交っている。皇后、アレクサンドラ・フョードロヴナはあの汚らわしい男を間男にしている。皇帝が4人の皇女の一人をグリゴリー・エフィモヴィチの慰みものするために差し出した。毎晩、宮廷に確保された自分の部屋にうら若き乙女を何人も集め、地獄のように淫らな蛮行を繰返している。役人たちの妻が顔をあわせれば、こういった噂で持ちきりだった。
 イリヤ・ピョートルヴィチも無関係ではない。そもそも、グリゴリー・エフィモヴィチが現れたことによって、ヴィシネフスキー一族の面目は丸つぶれになったのだ。今では、皇帝がイリヤ・ピョートルヴィチを晩餐に招いてピアノを弾かせるなどといったことは稀になってしまった。
 そのうちにグリゴリー・エフィモヴィチを宮廷から追放しようという動きがどこからか湧いてくる。それは当然な流れと言っても良いものだった。

23

 職員室で書類を片付けているところに、ポケットのなかの携帯電話が震えた。画面にはまた知らない電話番号が表示されていて、今度こそ例の刑事だろう……と僕は思った。「お忙しいところすいませんね……。F県警の小山です」と電話の相手は言う。僕の予想は当たっていた。
「例のピーター先生が来るの、明日でしたよね?その前に少しお話できないかと思いまして……」
「……電話じゃダメですか?少し仕事が残っているので」と僕は答えた。
「ちょっとお見せしたいものもありますのでね。直接お会いしたいんですよ。こちらは待てますので、どうにかお時間を頂戴できないでしょうか?そうですね、市内のバロック通りに『危険な関係』というお店があります。何時でも結構です。そこでお待ちしていますよ」と刑事は食い下がった。
 「9時過ぎにはそちらに着くと思います」と僕はしばらく間を置いてから刑事に伝えて、電話を切った。職員室から離れたところにある体育館からは剣道部の部員たちが、不気味な鳥のような金切り声をあげて練習しているのが聞こえた。時間はもう7時を回っている。書類を片付ける前に、あいつらを追い返さなきゃいけないな、と僕は思った。


 『危険な関係 リエゾン・ダンジュルース』。都会の人間なら失笑してしまう店名が、ショッキングピンクのネオン・サインで示されているので店の場所はすぐに分かった(おそらく、こんなことでもなければ一生足を踏み入れない場所だったろう)。「館内先生!」。店のドアを空けると刑事がすぐに声をかけてくる。薄暗い店内には刑事が以外に客はいない。
 僕が席に着くと退屈そうに煙草を吹かしていた店員がすぐに注文を取りに来た。「コーラを」と店員に伝えると、刑事はわざとらしく驚いた様子で「え?先生、飲まないんですか?」と言う。彼が必要以上に大きな声を出すので、刑事がかなり飲んでいるらしいことが分かる。
「いえ、車で来ているので」とテーブルの上に載ったウイスキーのグラスのなかで氷が融けかかっているのを見ながら僕は言った。
「気にしないでくださいよ!ほら、ここに代行のチケットもありますから!どうぞ!使ってくださいよ!」
 刑事はそう言って、無理やり僕にチケットを握らせる。そしてカウンターに戻った店員へと目配せすると、しばらくしてコーラの注文がビールになって出てくる。僕は店員からその中ジョッキを受け取って、抗議もせずにせずに飲んだ。刑事に渡されたチケットを押し返したり、注文が違うと店員に文句を言う――そういったことが少し面倒に思われたのだ。「暑いですからねえ。仕事のあとに冷たいビールを飲む。これはひとつの喜びってもんです。そうでしょう?」という刑事の言葉にも僕は返事をせず、黙りきったままビールを一口、二口と飲んでいく。
 空になった中ジョッキをテーブルに戻すと刑事は「いい飲みっぷりですねえ」とまた声をかける。いつのまにか刑事の顔にはあの嫌らしいにやけ面が浮かんでいた。
「で、話ってなんです?まさか、ご機嫌をとるために僕を呼び出したわけじゃないでしょう?」と僕は言った。
「おっと、そうでした……いけませんね。酒を飲むと仕事のことなんか忘れちゃうんですよ、私って奴は」と刑事は言って、煙草に火をつけた。僕は天井に向かってハイライトの濃い煙を吐き出す刑事の顔をじっと見つめている。
「お話したいことは2点ほどあります。ひとつは、山之内先生の妹さんのことです。山之内先生の告別式があった日からだ。毎日、妹さんが署に電話をかけてくるんですよ。『嘘をついてるんでしょ!本当のことを教えてよ!』ってね、毎回受話器の向こうで喚くんですよ――まぁ、私が対応するわけじゃないんですがね。
 告別式には出席されてましたよね?先生、彼女に何を話したんです?困るんですよねえ、勝手なことされちゃあ……。相手はちょっとおかしくなってるのかもしれないですよ。『マスコミに訴えてやる』なんて言い出すんですからね」
「たしかに僕は告別式に出席しました。でも、妹さんには何も話してはいない。ちゃんとシラを切り通しましたよ。面倒でしたしね」
 僕は正直に答えたつもりだった。それでもなお、刑事は僕を疑わしい目で見続けている。そのまなざしはいつものように僕を不快にさせた。
「第一、あなた方も嘘をつくならもう少しマシな嘘をついて欲しいですよ。『死因が心臓が破裂』ですって?世の中のどこに失敗したら心臓が破裂するような理科の実験があるって言うんですか?妹さんが疑いを持つのも当たり前だと思いますね」
 僕はそういって皮肉を言う。だが、それは刑事の顔に苦笑も反感も浮かばせなかった。刑事はきょとんとした様子で黙っている。僕の言葉の何が刑事の不意をついたのかは分からなかった。
 刑事が何も言わないでいると『危険な関係』の店内は妙に静かに感じられた。音楽はなにもかけられていない。威勢良く冷気を吐き続ける空調のモーター音だけが耳に入ってくる。店の外からは何の音も聞こえてこない――バロック通りはF市で一番の繁華街であるはずなのに、午後9時ともなれば誰も外を出歩かなくなる。それは衰え行く地方都市を象徴するような現象だった。
「先生ね、ちょっと勘違いをしてますね。まあ、私が何も言っていなかったせいだと思うんですが……。『死因が心臓破裂』っていうのは嘘でもなんでもありません。先生は、首に巻きついたゴムホースとか、アソコにぶち込まれたメスシリンダーとか、そういうものが死因になってるとお思いだったんでしょうね。でも、それは違う。文字通りです。心臓がね、破裂しちまってるんですよ。体の内側で。ゴム風船が地面に叩きつけられたみたいにしてね」
 今度は僕が驚かされる番だった――一体、何をされれば人間の心臓が破裂するというのだろう。ごくシンプルに、僕はその点を疑った。「どうして……?」。僕の質問に刑事はただ「わかりません」と言った。
 「しかしね、こういう謎の部分を隠しておく。こういうのは後々面倒なことを引き起こしやすい。こういう判断は長年刑事をやってると身についてくる勘みたいなものです。だから、私が隠してるのは『事故じゃない』ってことなんですよ」と刑事は続ける。僕には彼が言う勘についても上手く理解できなかった。
「まあ、良いです。しかしですね、これ以上、あの妹さんが騒ぎ出すと、もっと面倒になるかもしれない。具体的に言えばですね、このことが小笠原仁海の耳に入るかもしれない。こうなったらマズいことになるでしょう。
 お分かりかもしれませんが、彼はこの土地じゃあかなりの権力を持っている。それに行動が恐ろしく速い。まるで千里眼でも持ってるような情報網を持っている。そして、一番怖いのがやるときは徹底的にやる、ということです。
 もしかしたら、あの妹さん、消されちゃうかもしれませんなあ。何はともあれ、余計な仕事はこちらも増やしたくないわけなんですよ。この件についてはもう少し真剣になっていただきたい。これはお願いと言うか、忠告ですね。先生は面倒なことお嫌いでしょう?」
 僕は黙って頷く。刑事は3本目の煙草に火をつけたところだった。刑事は顔をしかめながら深く一口吸い、それから「マスター、これ(と言って、刑事は空になったグラスをカウンターの方へと掲げた)お代わり!あとビール、2杯追加ね」と言う。
 2杯?――僕は刑事の意図を確認するようにして、目線を彼の顔に向けた。1杯は僕の分だろう(僕のジョッキはしばらく前から空になっていた)。けれど、もう一杯は?
 しかし、僕と刑事の目線は合わない。彼は、店のドアの方を見ていた。「遅いですよ」と刑事は再び声を張り上げる。
 振り返ると、いつのまにかそこには一人の男が立っている。どこかで見たことがある男だったが、誰かまでは思い出せない。細身に仕立てられた流行の型のスーツを上手く着こなしたその男の姿は、寂れた街のバーにはとても不釣合いに思える。刑事と同業の者ではないことだけはすぐに分かった。

22

adorno_hegel_marx2008-06-05

 ジェネシスはしばらく入院。その間に、俺ともう一人は軍法会議にかけられた。俺たちが座らされた椅子のまわりには、陸軍のお偉方がずらり。なかには、偉すぎてこれまで一度も見たことない勲章だらけのオッサンもいた(後から話を聞いたら、そいつは湾岸でも活躍したヤツだったらしい)。「酒を飲んで夜警に出かけるなど、どうかしとる!」だの「死人が出てたらどうするつもりだったんだね!」だの散々説教を食らって、俺たちは仲良く一週間の謹慎処分。正直言って、ラッキーな処分だったと思う。ここでクビになって国に帰っても、国じゃ仕事なんかないもんな。それよりも、一週間の間、この砂ばかりしかないクソくだらねぇ土地でどうやって過ごそうかって方が俺たちには問題だったんだ。
 一番最初にやったことと言えば、ジェネシスの見舞いに行ったことだ。俺がヤツの病室に入ったら、ヤツはベッドの上で静かに眠っていた。白いシーツの上で、黒人が寝てるって姿はなんか面白いよな。コントラストっていうのか?まるでチェス盤みたいな感じだよ。足はギプスでガチガチに固めてあって、天井から吊られていた。頭には包帯が巻かれてて、これは倒れたときに頭を思いっきり打ってできたケガのためらしい。
「おい」
 俺は、野郎の枕元に立って声をかけた。すると、ヤツは目を開けたんだが、いや、驚いたね。ジェネシスの野郎、俺の顔を見た途端に、ガクガク震え出してよ。ギャアギャアと喚きたてたんだ。まるで悪魔にでも出会ったみたいなそういう取り乱し方でよ。俺もどうして良いのかわからないから「おい、落ち着けよ。俺だよ、俺」って言うことしかできなかった。すぐに看護婦と医者が来たから良かったけどさ。俺も含めて3人がかりで押さえつけて、右腕にプスッと注射打ったらしばらくしてヤツも落ち着いた。ブクブク口から泡吹いてたけどな。
「いわゆるトラウマ、というヤツです。知ってますか?死ぬかもしれないという状況下で、大きなショックを受けているのでしょう。あなたの姿を見て、そのショックがフラッシュバックしたのかもしれません。しかし、これは一時的なものです。治療をすれば治ります。3日後、また来てください」
 と医者は俺に言った。ロシア系の、やたらとガタイが良い医者でさ。なんだか、凄みがあるオッサンだったな。白衣よりも軍服の方が似合ってるって感じだった。「3日で治ったりするもんなのかね?」と俺は思いながらその日は病院を後にしたんだ。
 で、3日経って――この間、ポーカーで大負けしたり、イラク女がいる売春宿に行ったら出てきた相手が性転換した男だったりと散々な目に会ってたんだが――俺は医者が言ったとおり、またジェネシスの見舞いに行った。今度は、ヤツは眠ってなくてさ、新聞なんか読んでやがるんだよ。ヤツは俺が来ることが分かってたみたいに、俺の方を見て「よう」と挨拶をした。ギャアギャアもブクブクも無し。「おう」と俺は挨拶を返した。だが、よく考えたら見舞いに行ってもヤツと話すことなんかなかったんだよな。とりあえず、ベッドの脇にあったパイプ椅子に座って「具合、どうだ?」って声をかけてやった。
 するとヤツは「お前は神を信じるか?」なんて返しやがる。「具合、どうだ?」って訊いてるのに何言ってんだ、コイツ?と俺は思ったね。バカにしてんのか?とも思った。でも、ヤツの目はマジだった。マジ過ぎて、頭がおかしくなったんじゃないか、って俺は思った。
 俺が答えないでいると、ヤツは一人でベラベラと喋り続けた。
「足を撃たれてよ、地面に頭をベッタリつけながら、俺はもうダメかもな、と思った。暗くてよくわからなかったけど、足から血がドクドク出てるみたいだったし、傷口はものすごく熱いんだ。痛みはなかった。その代わり、変な汗が出てきてた。知ってるか?ああいうときにかく汗って、異常に冷たいんだぞ。それから、だんだんと体が冷たくなってきてな。意識も朦朧としてきやがった。
 お迎えが来たってヤツかな、と俺は思った。視界はますます暗くなってきてさ。ちょっとずつ体が軽くなってくみたいな感じがするんだよ。不思議だよな。さっきまで、傷口は熱いし、汗は止まらないしって感じだったのに、感覚がどんどんなくなっていくんだ。ベッドに入って、目を瞑って、眠るか、眠らないか、みたいな瞬間の気持ちよさってあるじゃないか。ああいう感じがあったよ。天国に昇る気持ちってああいうことなのかもな。
 俺はもう死んだのかな、って思った。そうしてるうちに、今度はだんだんと視界が明るくなっていったんだ。『お、これってもしかして天国か?ってことは俺は善人だったんだな。意外に近いんだな、天国』って思った。でも、天使とかそういうのはいないんだ。昔、日本のアニメで『フランダースの犬』っていうのを見なかったか?あれに裸の天使が出てきたじゃないか。ああいうのはないんだ。まぁ、もちろん、あんなのを信じてたわけじゃないけどよ。
 気がつくと俺がいる周りは真っ白な世界になっていた。相変わらず、体の感覚が無いから、自分が寝ているのか立っているのかもよくわからなかったんだ。そしたらな、どこかから声が聴こえてくるんだよ。
『目覚めよ』
 声の主の姿は見えやしない。でも、その声はどこかで聞いたことがある声だったんだ。
『立ち上がれ』
 声はどんどん、大きく激しくなっていった。得体の知れない動物が、発情期になって夜中に喚いてるみたいな声だ。あれ?って俺は思った。だんだんと声だけじゃなくて、景気の良いブラスやファンキーなベースラインも聞こえてくる。『立ち上がれ』――音楽と絡み合って声はますます、大きく激しくなっていった。そこで漸く、俺はその声の主が誰だったのか、気がついたんだ――そうだよ、その声の主は、ジェームス・ブラウンだったのさ!
 残念なことに、最後までJBの姿を拝むことはできなかった。JBが俺にメッセージを送っていることに気がついた途端に、視界はまた真っ暗になったんだ。体には、急に現実感みたいなものが戻ってきてた。目を開けたら、俺はベッドの上にいたんだ。呆然としたな。何が起きたかわからなかった。とりあえず、ションベンがしたくなった。
 それから少し考えたんだ。俺はキリスト教徒でもなければ、イスラム教徒でもない。俺は、単なる黒人で、アメリカ人だ。そういう人間にとって現れる神様がさ、JBだったっていうのは、おかしくもなんともないんじゃないか?ってな。天国でJBは神様になっていて、俺はその神様に会ったんだ。でもJBは、俺を天国に迎え入れてはくれなかった。『立ち上がれ、シーンに留まれ』ってJBは俺に言った。つまりこれは『生きろ』ってことだろ?
 とにかく俺はこうして生き延びた。神様に出会ってな……おい、お前、俺の話聞いてるのか?」
 俺は「ああ、聞いてるよ。心配するな」としか言えなかった。出来れば早く帰りたかったね。ジェネシスは頭がおかしくなっちまったのか?あのヤブ医者、「治療」とか言ってどんなドラッグを飲ませたんだ?